Foomin Paradise (読書ブログ)

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永野 慎一郎、近藤 正臣 『日本の戦後賠償 アジア経済協力の出発』

 大東文化大学の永野教授らの研究グループが、日本のアジア諸国への戦後賠償がどのように行われたか、賠償を含む経済協力がどのようにこれらの国々の経済発展に貢献したか、被賠償国ごとの事例を分析する本。
 
 戦後日本の連合国に対する初期の賠償は、在外資産の引き渡しや国内の資本設備の撤去(中間賠償)等からなっていたが、当時の国際環境の変化を踏まえ、早期に日本の経済復興と自由主義陣営の強化を目指すべきという観点からサンフランシスコ平和条約で賠償要件が大幅に緩和され、被賠償国との個別の交渉に基づく役務賠償が供されることになった。具体的には、フィリピンと南ベトナムビルマインドネシアに対しては賠償協定に基づく賠償が、ラオスカンボジアなど賠償請求権を行使しなかった国、法的な賠償対象ではないものの韓国やマレーシアなど財政/民事上の請求権を有する国に対しては経済協力という名目で準賠償が実施された。こうした賠償や経済協力は役務ないし生産物を通じて行われ、アジア諸国の経済発展の一因となり、またその有利な賠償条件やアジア諸国との経済関係の深まりから日本にとってもプラスの効果をもたらした。こうした自国の経済上の利益を強く意識した初期の経済協力の性質は、「低開発国、特に東南アジア諸国の経済発展に資する日本の貿易振興のための経済協力の推進」の意義を強調した第1回経済協力白書(1958年)に明確に表れている。

 

 本書において、賠償ないし準賠償に至る経緯とその効果がもっとも詳細に記されているのは韓国についての章。当初両国の主張には隔たりがあり、第一次会談は1952年に決裂する。1961年に政権を握った朴大統領は早期の経済再建と日本との国交正常化を目指し、米国の後押しもあって、1965年ようやく請求権に関する協定の成立に至る。対日請求権資金の総額は無償・有償あわせて5億ドルに及び、1967年から始まった第二次経済開発5カ年計画の主要財源として、韓国の経済開発に大きく寄与した。中でも現ポスコ社の前身である浦項総合製鉄所の建設は、欧米資金の取り付けが難航するなか請求権資金と日本からの技術協力を活用して行われ、韓国鉄鋼産業の礎となった。
 
 また国によっては、賠償資金が必ずしも高い開発効果を持つ案件に使われなかった例もある。インドネシア賠償は他国のケースと同じくそのほとんどがインフラや産業開発、資機材供与に使われたが、本書によれば、外資オフィスビルや高級デパート、リゾートホテルの建設など開発効果が疑わしい案件も見られた。こうした開発効果や民生の向上の点での疑問は、フィリピン賠償におけるいくつかのインフラ開発案件でも指摘されている。両国への賠償に共通するのは、賠償が戦後日本の両国への莫大な経済協力の出発点となっている点であり、その過程では両国の政財界による「ビジネスの範囲を超える密接な関係」が生まれることになったという(こちらの投稿もご参照)。

 

 いっぽう中国への賠償/経済協力はかなり複雑な経緯を辿った。台湾は1952年の日華平和条約において賠償請求権を放棄したが、これは本書によれば、中国共産党との内戦に敗れて低い国際的地位に甘んじていた台湾政府が、日本政府による国家承認を図るためのものだった。日本政府はその後円借款等の経済協力を行ったが、1972年の日中国交回復により台湾への政府間協力は終わりを告げる。そして同年の日中共同声明においては「中日両国国民の友好のために、(中国政府は)日本に対する戦争賠償の請求を放棄する」ことが確認される。その後の?眷小平らによる「自力更正」から外資受入れへの路線変更もあり、その後の日本による対中経済協力は拡大の一途を辿っていくが、こうした資金は賠償とは直接の関わりのない性格のものとされた。

 

 他方、従軍慰安婦問題や旧日本軍軍人・軍属の補償問題など、民間人への補償については、本書は「未解決の問題が残されたまま」とし「アジアの責任ある国家として、まず、日本が誠意を持って問題解決につとめ、アジア諸国に理解と協力を求めなければならないというのが条理である」と述べている。上記の賠償・準賠償は、主として被賠償国の経済開発案件に充当されたため当該国民の直接の裨益には短期的には結びつきづらく、また戦争による被害を受けた個人に対する補償資金としては充当されなかったため、中国・韓国では賠償完了後もたびたび日本に対する個人補償請求の主張がなされる事態となっているという。

 

 こうした本書の考察から分かるのは、一般的な国家間賠償の性格に照らして、日本の戦後賠償はかなり独特な経緯を辿ってきたということだ。そもそもナチスの台頭の遠因となった第一次大戦後のドイツへの多額の賠償請求の教訓、また冷戦下で日本に経済的な負担をかけるのは得策でないという米国の意向により、日本の賠償条件は大幅に緩和された。(国民からの反発を考えれば当然のことではあるが)日本政府も個別の賠償交渉においては一貫して賠償額を最小化するポジションを取ったし、また賠償請求側も、脆弱な政権基盤や国際的地位の向上、経済発展計画の存在など、多少妥協してでも早期の協定妥結を望むだけの理由をもっていた。結果、多くの国について賠償額は当初請求額より小額ないし請求権自体が放棄されることになった。また役務という賠償形態は、日本の商社や建設業者・製造業者にとって格好のビジネスチャンス、アジア諸国進出の足がかりを供することになった。こうして日本側に利を与えたことも、日本の戦争責任の取り方が不十分であるという近隣諸国の印象を買ってしまった一因かもしれない。

 

 本稿は、学生時代に一度読んだ本書を、最近になって再び読み直して書いたものである。当時本書を手に取ったのは、大学の「国際援助論」で教授から「アジア地域での戦後処理は本当の意味では終わっていない」と言われたのがきっかけだった。日本の援助は長い歴史を経て、いまや賠償とは全く関係のないロジックで実施されているが、その原点は間違いなく戦後の対アジア賠償にある。日本政府は、有利な条件で賠償を早期に完了した後、それを礎として多額の援助資金をアジア諸国に供与し続け、その発展に寄与してきた。他方で、アジア諸国からの日本の戦争責任を問う声や、日本の軍備拡張を懸念する声は今でも後を絶たず、それが日本の政治家や国民のフラストレーションを増す結果となっている。たとえば中国・韓国に対して「あれほど多額の経済協力を日本から受けておきながら今さら戦争補償や謝罪の要求など、恩知らずも甚だしい」といった論調は今の日本に少なからずあるが、「賠償とは関係のない」これまでの多額の経済協力の歴史は、一部の国との関係においてはむしろ国民の間の相互不理解をすすめる一因になってしまったのかもしれないとさえ感じられる。

 

勁草書房、1999年)