Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

服部 正也 『援助する国される国:アフリカが成長するために』

 『ルワンダ中央銀行総裁日記』で知られる元ルワンダ中央銀行総裁、元世界銀行副総裁の服部氏による、アフリカや開発援助についての論考集。

 本書は、服部氏の没後に有志が散逸した同氏の論考をまとめたものであり、各編どうしのつながりがやや弱く、個別の主張もやや分かりづらくなっている部分はある。しかしそれを抜きにしてもなお、アフリカや開発援助に関係する人たちにとって学ぶべきポイントに満ちており、多国籍開発機関の問題点や日本の開発援助のあり方といった『ルワンダ中央銀行総裁日記』では触れられなかった新しい話題もある。いくつか抜粋して紹介したい。
 

【日本の援助について】
「問題のひとつは、アフリカに限らず途上国全般に対する認識、受け取り国の経済発展に対する認識の不足のために、自分の考えがなく欧米の追随になっていることであろう」「アジアに対する日本の援助の成功は、援助受け取り国が自国の開発について明確な構想を持ち、要請した援助案件を成功させる熱意と能力があったことによるもの」「日本のアフリカ援助は空振りが多く、うまくいかないと失敗を相手のせいにしがちなのである。しかし、実情をいえばアフリカをよく知らない人の机上計画か、交流の欠如によるところが多いように思われる」「日本には、援助は何のために行うのか、といういわば援助哲学が確立していないきらいがある。・・・それでは援助は何のためにするのか、援助はなぜしなければならないのか。それは現在の自由交易体制を保持し強化するためである」「日本人は言うのを憚るけれども、被支配民族にとって日本の意義は大きいのである。・・・日本人の自助努力なくしては復興、それに続く発展は成し遂げられなかったのだから、日本発展の過程を教訓として伝えることはアフリカなどの途上国が一番日本に期待している事のなのだと思われる。」

 服部氏は、戦後の対アジア援助が成功したのは、受取り国にビジョンと能力があったからだと言う(ガバナンスの強さ、と言い換えても良い)。政策干渉をせずに、当時の基準からして桁違いの資金・技術を動員した日本の援助は、こうしたアジアの文脈に実に良くはまった。しかしアフリカは違う。厳しい気候や人的資本、そして何よりも弱いガバナンスといった条件が、アジアより劣後している。こうした状況に合わせた援助手法、そしてそれを支える対アフリカ援助哲学が検討されるべきだったが、対アフリカ援助量が増え続ける一方でそうした議論はおざなりになった。その間に、「唯一の非欧米先進国」としての日本の強みも薄れ、今やアフリカ諸国の関心の目は、どちらかというと中国やインドら他の新興諸国のほうを向いてしまったように思う。「日本発展の過程」の肝は、個人的には第一にガバナンス(政府のビジョンと能力)、第二に農業生産性(元々水は多い。緑の革命もあった)、第三に教育水準の高さであったと思うが、アジアの新興諸国で類似のストーリーを有した国は続々と出てきており、これらはもはや日本の専売特許とは言えなくなりつつある。


【国際機関について】
「特に問題であるのは、国際機関の職員は『国際公務員』と称して、自分たちは国家公務員よりは『偉い』と思い込んでいることが多いところにある。・・・国際公務員に一番必要でありながら、一番欠けている資質は、まさにこの謙虚さなのである」「国連に途上国援助の機関は多数あるが、途上国で働いた経験では、途上国にとって本当に役に立っているものは、国連難民高等弁務官事務所と国連児童基金のほかは、数少ないように思われる」「(マクナマラ総裁時代の世銀、積極融資方針について)私は健全な投資のために必要な先進国からの資金移転は有益であるとは認めるが、当時の世界銀行では、資金移転をすれば、開発は自動的に起こると解釈されていたもようであった」

 経済発展の主役は民間部門であり政府部門による過度な介入は禁物、度を超えた優遇貸付もすべきではないと考える服部氏にとって、後年勤務されたマクナマラ総裁下の世銀の風土は相容れないものであったようだ。事実、当時の世銀がアフリカに貸し付けた資金はその多くが焦げ付き、1980、90年代の経済低迷、そして2000年代の債権放棄の流れにつながっていく。「国際機関」というと大方の日本人にとっては一律に良いイメージがあるが、機関によっては機能の重複や低い生産性が問題であり、いまや欧米諸国の一部には、国際機関のパフォーマンス評価を行い、評価が低い機関には出資を再検討するといった動きもある。日本政府は殆どの国際機関に相当の出資金を提供しているが、日本のメディアや政治家はこの辺りの動きにもっと敏感になっても良いと思う。


【アフリカの人々について】
「アフリカ人が先進国人の勧めることを実行しないのは、発展意欲がないからではなく、先進国人の勧めるような発展をアフリカ人が望んでいないか、先進国の勧めることを実行してもアフリカ人の望む発展が実現するとは納得していないかである」「尊敬がなければ、まともな対話は不可能であり、こちらの意見が尊重されるわけはない。尊敬は相手の合理性を信じ、その納得を得ようとする態度と、意見を実施した結果の成功の実績の積み上げで初めて獲得できるものだということを認識する必要がある」「いわれのない『恵み』を受けることは、自立自尊の心を持っている人にとっては、大変な屈辱なのである。そして、アフリカ人は大部分が自活農民として、自立自尊の民であることを忘れてはならない」

 自分はいま実際にアフリカに駐在して援助の仕事をしているが、この地域の人々の「合理性」や「自立自尊の心」に気付かされることが、日々よくある。現地のことは現地の人が一番良く知っており、外部者から見て一見不合理に見える行動にも、絶対に何らかの理由がある。概して援助する側が強い立場にあり、よほど留意せねば一方的なアイデアの押しつけになってしまうということ、今後も肝に銘じたい。


【アフリカ経済について】
「アフリカ途上国にとって新植民地体制後遺症の最大の問題は、一次産品への過大依存問題、外国企業過大収益送金問題及び累積債務問題である」「マクロ的分析の主要手段である統計がアフリカの途上国ではきわめて不備であるので、マクロ的分析には限界がある。・・・アフリカの途上国発展や援助に関わる人たちが途上国発展について、効果のある適切な施策を提言できなかったのは、ミクロ経済学を軽視したためではないかと思われる」「アフリカ諸国が自立的な成長路線に乗るためには、まず、国民資本の形成と国内・域内市場の開拓が必要と思われる。・・・経済の自由化が発展につながるためには、まず国内市場が整備していて、自由競争の環境ができていることが必要である」「農業の発展は、従来の政府による技術の指導、投入物の供給、政府主導の組合による集荷・加工などの上からの奨励策では効果があまり上がらないことは既に経験済みである。むしろ、農家の金銭所得が増えることによりアフリカ自作農民の発展意欲、特に、その土地の生産力増強の意欲が発揮できるよう、自作農が発展できる環境をつくり、整備すること肝要であると思われる(当方注:具体的な施策としては、土地制度の制定、国内・域内市場へのフォーカス、道路網の整備、農民の商業進出奨励等が挙げられている)」

 マクロ分析のみに頼らず、個々の家計や企業といったミクロの経済行動に注目すべし、という服部氏の言は、アフリカの開発経済学が未だ発展過程にある今でも、なお有効である。実際に同氏には、ルワンダの地元農民や商人、外国企業のインセンティブや行動様式を考えて同国の経済金融政策を立案し成功させた実績があり、説得力がある。また農業開発に関する提言はまさに至言で、今もなお多くの農業援助案件が「政府による技術の指導、投入物の供給、政府主導の組合に因る集荷・加工」を主たる要素としている現状に、大きく考えさせられるものがある。本来は、土地政策やインフラ整備、商業や金融などを包含する、「農民」を対象としたより広い政策パッケージが必要なのだが、これに成功しているアフリカ諸国の数は決して多くない。


 当方、この本を初めて読んだのは学生時代だったが、正直言ってそのときには本書の内容の半分も理解できなかった。その後、アフリカや経済学、開発論を勉強したり、また実際にアフリカに滞在したりする中で、服部氏が本書で言わんとしたことが少しずつ分かるようになってきた。偉大な先輩の思考にどうにか付いて行けるようになったのを、素直に嬉しいと感じる反面、同じアフリカ開発に携わる後輩として、同氏から課せられた課題の大きさに改めて身のすくむ思いを感じてもいる。

(2001年、中央公論新社

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