Foomin Paradise (読書ブログ)

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粟屋 憲太郎 ほか 『戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか』

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 立教大学教授(当時)の粟屋氏らのグループが、異なる経緯を辿った日本とドイツが、それぞれ戦争責任をどう自覚し果たしてきたか、被害者への謝罪や補償をどう行ってきたか、両者の比較を通じて検証する本。

 アジア諸国に対する日本の戦争責任は、もっぱら(有利な条件のもと行われた)国家間賠償に留まり、戦後間もない時期から法整備された日本国籍を持つ戦争犠牲者遺族への補償とは対照的に、外国籍の軍人・軍属や強制連行被害者らは補償対象から一貫して外れてきた。こうした日本政府の方針は、現在も一部のアジア諸国からの批判を呼び起こしている。他方、ドイツの戦争責任に対する一般的な姿勢は「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」と述べた1985年のヴァイツゼッカー演説に象徴される。戦後間もない時期にはヒトラー時代のドイツ人が犯した罪(第一の罪)を心理的に否定しようとした時期もあったが、今ではこうした戦争責任から逃れようとした動きを「第二の罪」と呼んで省みる動きさえあるという。外国籍の戦争被害者に対しては、主として属地主義に基づく「ナチスの不法に対する補償」、あるいは他国との個別の補償協定に基づいて実施している。

 こうした両国の歩みの違いについて、本書は、戦後日本を覆ってきた「被害者意識」と、戦後ドイツにおいて検討されてきた「加害の論理」の違いに着目する。戦争を押し進めた軍部に対する支持は両国民において見られたが、広島・長崎に原爆を落とされ、東京裁判において一部の軍事指導者の責任が問われたのみで(天皇は免責)、その後は米国の安全保障の傘の下で経済発展に邁進できた日本。他方、戦後間もない時期から戦争責任を内外で問われ、また経済復興を果たす上で近隣諸国との交易を行うためにはまずナチス政権が与えた被害に対する謝罪と補償に向きあわねばならなかったドイツ。そして本書の終わりで筆者(山口氏)は、「島国的な閉ざされたナショナリズムによって限定された人権感覚と、道徳的基準についての『ダブル・スタンダード』を可能にする基本的に共同体的な価値観ないし行動様式」の二つを「われわれを拘束する主体的・文化要因」として挙げている。

 本書では、どのように今の日本が戦争責任・戦後責任を果たすべきか、具体的な処方箋までは明らかにされない。国際法上では、国家間の戦後賠償は公式に完了しているし、現在議論となっている中国や韓国への戦争被害者への補償についても既に個別の条約等で請求権の放棄が確認済みである。ただし、過去の植民地支配と侵略に対する謝罪を行った村山談話の内容を今後も公式見解として継続することや、単に国民間の憎悪を煽るだけのナショナリスティックな言行は厳に慎むこと(これは先方の政権も同様)、日本が有するのは自衛権のみであり新たな侵略戦争は絶対にあり得ない旨を丁寧に説明して行くことは、今後の政権でも出来ることである。一方で現政権による昨年末の靖国神社への参拝などは論外であり、国内の保守層への配慮といったメリット以上に、外交や経済上のデメリットの方が大きいはずである。

 そして山口氏の言う上記の2つの文化的要因については、たしかに頷ける部分もあるものの、これがある限り永遠にアジアに開かれた日本、アジアで受け入れられる日本がやって来ないと解釈すると、かなり絶望的なファクターではある。本書の発行から既に20年が経過し、日本の開国を望む声は国内外からかつてないほど高まっている。今世紀、経済や文化の上でのアジアや世界との関わりが深まって行けばいくほど、こうした文化的要因は薄れて行くものと信じたい。

 もうひとつ、このタイミングで本書を読み直してみて参考になったのは、戦後ドイツの再軍備について触れた箇所。ドイツの基本法憲法)は、①侵略戦争をしない、軍隊は防衛のためにのみ使われる、②集団安全保障体制に参加し、その際には自国主権を制限する(自国の軍事力の独自化防止)、③防衛戦争の遂行(非常事態体制)は議会のコントロール化に置かれるという三原則のもと、軍隊の保持を認めている。本書によれば、再軍備じたいは戦後間もない時期の東西冷戦によって要請されたものだが、その後の非常事態法制などは激しい論争を経て憲法改正(議会の三分の二の承認が必要)により整備された。「軍事体制の憲法的整備が自覚的に進められたから、軍事力の暴走や濫用に対する防止措置の追求が、それ自体として真剣に行われた」という。日本では憲法が軍隊保持を禁じていながら、政府の解釈変更によって自衛隊の創設やイラクへの派兵が行われ、現在では同じく解釈変更による集団的自衛権や集団安全保障への参加が議論されている。本来必要なことであれば、憲法改正を通じて行う方が軍事力の暴走を止める明示的な仕組みも議論されるだろうし、アジアの近隣諸国の不安を薄めることにもつながるだろう。

(1994年、朝日選書)

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