Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

高橋 哲哉 『靖国問題』

 なぜか今になって靖国神社についての本を読んだりしている。小泉政権以降の首相が参拝しなくなって世間をにぎわすことはあまりなくなったが、問題が人の眼に触れなくなっただけで、靖国神社の問題の本質は今も変わらない。

 高橋氏は本書で「感情の問題」「歴史認識の問題」「宗教の問題」「文化の問題」「国立追悼施設の問題」に切り分けて靖国神社の問題を論じている。特に大きな論点は前者の三つ。「感情の問題」は、靖国神社のシステムが、遺族の悲しみを喜びに挿げ替える「錬金術」の側面を有していたこと。「歴史認識の問題」は、A級戦犯合祀問題のみならず、近代日本の植民地主義清算が未だ十分ではないこと。「宗教の問題」は、首相や天皇靖国参拝を合憲とみなした判決はないこと、その生い立ちから靖国神社の「非宗教化」は不可能であること。こうしてみると靖国神社の問題は、単なる個別事象としてではなく、近代日本の歴史を貫く大きな視野をもって捉えねばならないことが分かる。とりわけ歴史認識の問題はやっかいで、近代史を勉強したうえで追って自分なりの意見をまとめたいと思っている。

 本書での高橋氏の主な主張は次の二点に集約される:「一、政教分離を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実とともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に絶つこと」「一、靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取り下げを求める内外の遺族の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を、自らの信教の自由の名の下に侵害することは許されない。」後者の点について、靖国神社側は、「日本の兵隊として、死んだら靖国にまつってもらうんだという気持ちで戦って死んだのだから、遺族の申し出で取り下げるわけにはいかない」として、遺族の合祀取り下げ要求を一貫して拒否してきたが、これは世間の感覚に照らせば完全におかしい。靖国神社での追悼を望む遺族がいる一方そうでない遺族がいることは当たり前で、靖国神社が強制的に追悼を継続する根拠はどこにもない。

 かの石橋湛山が、戦後間もない頃に靖国神社廃止を唱えていたことも、本書を読んで初めて知った。その背景は、当時の日本の国際的立場の考慮と、太平洋戦争を「汚辱の戦争」とする歴史観だという。靖国神社を直ちに廃止することは非現実的だが、歴史認識・戦争責任の問題とあわせて戦没者追悼のあるべき姿については継続的な議論が必要である。首相が靖国神社に参拝しなくなったからといって、中国からの批判がトーンダウンしたからといって、日本人として忘れて良い問題ではないはずである。

(2005年、ちくま新書

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