Foomin Paradise (読書ブログ)

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キショール・マブバニ 『「アジア半球」が世界を動かす』

 元シンガポール外交官で現リー・クアンユー公共政策大学院院長のマブバニ氏が、世界秩序における西欧の価値観への偏りに警鐘を鳴らし、非西欧(アジア)的視点を取り込むよう主張を展開する本。

 マブバニ氏の問題意識は、現代の西欧諸国がもつ「世界人口の12%の人々が、西欧の外に住む残りの86%の人々を支配し続けることが可能だと信じる精神」。いまや中国やインドといったアジア諸国は経済的にも政治的にも台頭し、彼らとの対話を抜きにして世界秩序を語ることは本来出来ない。しかし近年の欧米諸国の保護主義的傾向(自国農家への補助金を削減せずに自由貿易交渉を死に追いやった)、イラク戦争に見られる安易な民主主義の押しつけなど、西欧世界が抱える矛盾は至る所に見られるという。後者については、バルカンとルワンダの事例を挙げ、「適切な制度と政治的文化がないと、多くの国で長くくすぶり続けてきた民族や宗教や民族主義的な感情が、ご都合主義的な煽動政治家によって煽り立てられる可能性がある」とも述べる。

 マブバニ氏によれば、新しい「アジア半球」の世界において欧米と並んで主役足りえるのは、中国とインドである。中国は歴史的経緯から本質的に「狭量」な大国となる可能性がある一方、様々な異文化を受け入れ吸収してきたインドは、より「コスモポリタン」な性向を持つ。とはいえ例えば、影響を及ぼそうとする国の歴史や文化についてあまりに無知な欧米の指導者と比べたとき(ブレア前英首相は、湾岸地域のブリーフィングの際に「モサデクとは誰かね?」と尋ねたという)、日本を除く近隣諸国と「無難な」協力関係を築き(EUとは対照的)、また中南米やアフリカ地域と強固な経済的関係を築いている現代中国の指導者は、自らの過去や西欧の諸大国の経験から、多くの教訓を学んでいるという。当方も依然欧州に住んでいたとき、本国から出張してくる中国の研究者や政策担当者が、今後の世界秩序における中国の役割について、自分の口で驚くほど率直に語っている場面に出くわし、少々面食らったのを覚えている。

 最終章は、今後のあるべき世界秩序について書かれている。マブバニ氏は、民主主義、法の支配、社会的公正という西欧発の「三大原理」を、世界中で注意深く慎重に適用することが21世紀の課題である、と述べている。しかし国連安保理の拒否権やIMF・世銀総裁選出方法に見られるように、グローバルカバナンス上では、世界人口の12%に過ぎない欧米がいまだに主導権を握ろうとしている。ここでマブバニ氏は、「協力関係」「現実主義」という2つのキーワードを提示し、欧米が一方的なイデオロギーではなく「世界を西欧化することはもはや不可能」というプラグマティズムの観点に立った、非西欧世界との対等な協力関係を築いて行くことを提案する。端的な例として示されるのは米国とイランの関係であり、米国はイラクの分裂回避に誰より既得権を持つイランと外交関係を構築し「イランの学生はアメリカ留学を再開すべきだ。アメリカの旅行者は、イランの考古学的に基調な遺跡を訪ねるべきだ。アメリカはイランに投資し、自由貿易協定の申し出までもするべきなのだ」と説く。経済の低迷から米国のみならず欧州そして日本もが内向きになりつつある昨今、これら20世紀の大国が、長期的な世界の安定の代わりに目前の主張を妥協させるよう国内をまとめるのは現実的には難しかろうが、それでも同氏の主張には真摯に耳を傾け続けていく価値がある。

 本書は「アジア半球」について書かれた本だが、日本についての言及は驚くほど少ない。巻末の「解説」で緒方貞子氏が言う「残念ながらいまや『(西欧とアジアとの)架け橋』というのはおよそ日本には望めない仕事ではなかろうか」との視点を、恐らくマブバニ氏も共有している。そして残念なことに、それは欧米非欧米を問わず世界の多くの人々にとっても共通する現状認識である。日本は、高度成長期も「失われた20年」の間も、世界秩序において責任を果たす上での自身の役割と戦略をついぞ真剣に考えてこなかった。緒方氏は、今後はアジアからも学ぶという姿勢を持った上で(既にこの時点でつまづく人も多かろうが)、「今後、アジアがアフリカや気候変動などの世界全体の問題に主体的に取り組んで行く中において、その最良のパートナーとして先導役を務めることが、これからの日本の進む道だと考えている」「(世界を覆う網の)網元はいくつかあって変わるが、日本もひとつの網元(たとえば科学技術)くらいにはなれるだろう」と述べている。とはいえ、来月(2012年12月)の総選挙でも至近の外交課題として領土問題やTPPが議論の遡上に乗っているが、そうした目前の課題もさることながら、長期的かつ広い見地から世界における日本の立ち位置を今後どうしていくか、そうした高所の議論が本来求められるべきと思うが、渦中の政治家やマスコミからはそうした発言は聞こえてこない。世界3位の貿易立国日本は、依然として世界に対して果たすべき大きな責任を抱えているはずだが、このままでは文字通り世界から掻き消えた存在になりかねないと、外地でもどかしく感じている。

(原著:Kishore Mahbubani "The New Asian Hemisphere" 2008.
 邦訳:北沢 格 訳、2010年、日経BP社)

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