Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

R・サロー、S・キルマン 『飢える大陸アフリカ 先進国の余剰がうみだす飢餓という名の人災』

 ウォール・ストリート・ジャーナル紙で長年にわたって農業・食糧・アフリカの問題の取材を続けてきたサロー、キルマンの両氏が、現代のアフリカの飢餓の実態に迫ったルポルタージュ
 現代における飢餓のメカニズムを端的に示そうとする本は少なくないが、その中でも本書は出色。19世紀のじゃがいも飢饉から1950年代のボーローグ(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/36046135.html
)によるブレイクスルー、2000年代のエチオピア飢饉に至るまで、取り扱う時間軸と地域的な幅は広いが、長年この分野の取材を続けてきた記者ならではの具体的なエピソードが各所に挿入されており、一気に読ませる。
 
 アフリカの農業開発・食糧不足は、農業生産面のみならず、流通や市場、当該国の農業政策全般に跨る問題に起因していることは良く知られている(例えば http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/34824923.html
)。本書でも冒頭で、アジアやラテンアメリカと対比させつつ、「新技術がもたらしたのは収穫量の増産だけで、緑の革命の重要な成果はアフリカにはもたらされなかったのだ。農村部で収穫した作物を食糧不足の地域へ輸送するインフラ整備への投資はなく、農家が作物を公正に取引できる市場も構築されず、農家への財政援助もなく、価格の下落に対処するための補助金も支給されず、自然災害による損失をカバーする農作物保険もない」と、アフリカ農業の問題を端的に述べている。
 1981年の「バーグ報告(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/34077670.html
)」については単発的な事実として知っていたが、本書を読んでようやくその背景が理解できた。同書によれば、バーグは先進国によるアフリカ農業支援の拡充と、政府部門の大胆なスリム化の両方を同時に謳ったが、財政赤字に苦しんでいた当時の先進諸国は、後者のみを意図的に選択した。民間部門が十分に育っていない中、研究開発や普及部門、種子・肥料や農作物の流通に大きな空白が生じ、政府補助金も大幅に削減され、安定した生産と農業収入の両方が失われた。
 2000年代に入って潮目は変わりつつあるが、本書で詳細に述べられているように、例えば2003年のエチオピアでは、前年の大豊作と価格暴落によって多くの農家が作付を減らした結果、翌年の旱魃によって国の食糧供給が止まり、広範な飢餓が発生した。また、2011年にアフリカの角で発生した先般の飢餓のニュースは記憶に新しく、しかも危機は今なお現在進行中である。21世紀に入っても未だに飢餓に苦しめられる地域があるという事実は、人類にはこの分野でまだやることが残されている、という重い事実を突きつける。

 本書を読むと、流通や市場の発展なしに一国/地域の農業振興はありえないことが良く分かる。多くのサブサハラ・アフリカの生産者は未だに、豊作で供給が需要を大きく上回った場合、出荷しても市場の仲買人に言い値で買い叩かれるか、買い手がつかないか、輸送費が利益を上回る場合は作物を廃棄せざるを得ない、といった状況を抱えている。保存のための設備も整っていないため、売買は常に刹那的である。自然、一年のうち特定の時期に売買が集中し、価格は不安定になる。商品取引所を設置することによって、予め販売価格を設定することで生産者のリスクをヘッジし(先物契約)、また先物契約を担保にして生産者が銀行から融資を受けることをも可能にした、本書で紹介される19世紀の米国・シカゴとは対照的である。
 資金面の支援も重要である。先進国よりもはるかに厳しい環境のもと大きなリスクを背負って生産しなければならない途上国の生産者に対しては、概して政府による何らかの財政支援が不可欠である。サブサハラ・アフリカの政治指導者は、これまでの国際機関の支援方針や自らの政治的資源に照らして、これまで生産者に対する補助金には多くの関心を払ってこなかったが、例えばマラウィではムタリカ大統領のイニシアチブで2005年から主に肥料購入に対する農業補助金制度が始まり、本書でも詳しく紹介されているように国全体としての穀物増産を実現し(http://www.nytimes.com/2007/12/02/world/africa/02malawi.html?pagewanted=1
)、かつて反対してきた英国や世銀も方針修正を余儀なくされるなど、時流はだいぶ変わってきているようではある。

 他方、本書で明らかにされる先進国諸国の農業補助金の実態は、サブサハラ・アフリカのそれと比べた際に、相当にショッキングなものではある。先進諸国は、途上国の農業部門に対して開発援助を注ぎ込む一方、それを途方もなく上回る農業補助金を自国の生産者に支給し、トウモロコシや小麦、綿花や砂糖に至るまで世界の農産物市場に莫大な農産物を供給、途上国の農業部門を圧迫してきた。本書によれば1980年代、とある融資交渉において、アフリカのとある国の経済担当閣僚が、「アメリカでは農家へ補助金を出しているのに、なぜ我々の国に対して農家へ補助金を出すなと言うのか」と尋ねたところ、世界銀行の米国人スタッフは「我々には愚かな行動を取る余裕があるが、あなたの国にはない」、と答えたという。とあるマリの綿花農家は本書の著者に、先進諸国の農業補助金について、せめて「より良いのは、綿花栽培にでなく、農家にお金を払う(家計への直接補償)ことです」、と語る。
 表向きには善意によって贈られる「食糧援助」でさえも、ときには偽善の象徴になりえる。現在でも、米国の食糧援助は、政府が予め決められた一定量を自国内で調達するという点で一種の政府補助金の性格を有している。そこに流通企業と、現地での配布を担う人道援助団体も加わって「鉄の三角関係」が築かれている、と本書は言う。しかし、エチオピア穀物市場にまつわる本書のエピソードで詳しく紹介されるように、こうした莫大な食糧援助は、ときに途上国の市場から地場産の農作物を締め出し、地元農家の収入を押し下げる要因となる。本書に登場するエチオピア穀物取引会社の経営者は、「なぜアメリカは、エチオピア国内の余剰作物を買い上げるための資金援助をしたうえで、さらなる不足分を補う食料を送ってこないのか」、と憤りを見せている。

 食糧増産・飢餓撲滅のための様々な取り組みを紹介する後半部分は、全体として若干楽観的にまとめられ過ぎている印象はあるものの、一つ一つのエピソードは具体的で示唆に富んでおり、勇気付けられる箇所も多い。上述のマラウィの肥料補助金の事例や、エチオピアにようやく開設された商品取引所、食糧援助に用いる食糧を現地農家から購入するWFPやゲイツ財団による「P4P」プログラム(http://www.wfp.or.jp/pr/tmp.php?seq=271
)、真水への混入が不要な(ペースト状)革命的な人道支援用栄養強化食品プランピー・ナッツと開発元のニュートリゼット社、などなど(直接農業とは関係しないが、聖書の内容を引きつつ米国内の保守派のマインドを変えたU2・ボノの債務免除キャンペーンについても、その模様が具体的に紹介されている)。過去半世紀の試行錯誤の結果、幾つかの単発的だが画期的な試みが、ようやく成果を伴ってなされつつある、というのが現在の局面である。日本の対アフリカ農業支援も、こうした市場や流通、政策面の動きを常に視野の中に入れ、他の支援者とともに大きな構想の中で行ってゆかねばならない、とつくづく思う。

(邦訳:岩永 勝 監訳、悠書館、2011年
 原著:Roger Thurow and Scott Kilman "ENOUGH - Why The World's Poorest Starve in an Age of Plenty." 2009. Public Affairs.)


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