Foomin Paradise (読書ブログ)

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塩野 七生 『ローマ人の物語 XI~XV』

 『ローマ人の物語』全15巻のうち、ローマの衰亡期にあたる、マルクス・アウレリウス帝の治世から西ローマ帝国滅亡直後までを描く。

 第XI巻『終わりの始まり』は、五賢帝の最後マルクス・アウレリウス(161年即位)から皇帝セプティミウス・セウェルス (211年死去)の治世までを描く。それまでの平和と繁栄が幻だったかのように、マルクス・アウレリウスの治世下では、内外の騒乱が矢継ぎ早に発生する。東方パルティアの侵攻、疫病の発生、ライン・ドナウ両河からのゲルマン諸族の侵入。その後を継いだ実子のコモドゥスは、ゲルマニア戦役における講和を急ぎ、ドナウ河における「60年間の平和」をもたらすが、指導者としての職務を半ば放棄したため暗殺される。その後、複数の将軍が後継に名乗りを上げる内乱の時代を経て、セプティミウス・セウェルスが即位、安全保障強化のために軍団兵の待遇改善に努めたが、兵士にとっては兵役が心地よすぎる結果となり、軍から民間への人材移転を妨げ、ひいては軍の肥大化、帝国財政圧迫の一因となってしまう。
 
 第XII巻『迷走する帝国』は、セプティミウス・セウェルスの実子・カラカラ帝(211年即位)からカリヌス帝(284年死去)まで、内乱と混迷に明け暮れる3世紀の帝国の様子を描く。塩野氏のまとめによる、後世の歴史家・研究者が記述した三世紀の危機の要因は、①帝国指導者層の質の劣化、②蛮族の侵入の激化、③経済力の衰退、④知識人階級の知力減退、⑤キリスト教の台頭、の5点である。これらが複合的に重なり、「目前の危機に対応することに精一杯で、そのためには自分たちの本質まで変えた結果、危機はますます深刻化することしかな」い状況に、ローマは追い込まれていく。それを象徴するのが、本書冒頭のチャートからも明らかな、73年間の間における22人もの皇帝の乱立である。この不安定な政局の下では、一定期間における一貫した政策(ないし合理的・効率的な資源の動員)など望むべくもなかった。
 塩野氏によれば、一つのターニングポイントは、「国民一致体制」を望んだ若き理想家・カラカラ帝が212年に発した「アントニヌス勅令」である。同勅令により、属州民を含む帝国内のすべての人々がローマ市民権を得たが、それまでの「努力すればローマ市民権を得られた」時代と違い、同市民権の価値が薄れ、もともとのローマ市民の公共心を減退させるとともに、旧属州民の「向上心や競争の気概」を失わせ、かえって社会の流動性を損う結果を生んだ。なお「属州税」が自動的に撤廃となった代わり、ローマ市民のみに課されていた(肉親のみならず有望な若者等他者への寄進に対しても課される) 相続税、および奴隷解放税が主財源として期待されたが、これもローマ人の公共心の減退と個人主義の台頭に伴い、見込倒れに終わったと考えられる。その15年後、時の皇帝アレクサンデルにより、皇帝への控訴権は廃止され、司法上の最終決定権が各属州の総督に移譲されるが、塩野氏によれば、これも「アントニヌス勅令」によってローマ市民の数が激増した結果、皇帝の司法処理能力が限界を超えたから、である。
 ゲルマン人の侵入も、それまでとは性質が大きく変化した。より遠方に位置した伝統的にローマとの接触が少なかった諸族が、ローマと境を接する諸族を統合ないし押しつぶす形で、機動的な騎兵をもってローマ領土内を荒らしまわるようになる。不安定な政局下、ローマ軍の対応はどうしても後手となる。地域によっては、隣接するゲルマン人に「年貢金」を収める地域も出てくる有様。紀元260年には、皇帝ヴァレリアヌスが東方ササン朝ペルシアに生きたまま囚われる、という前代未聞の事件も発生し、国外におけるローマ帝国の権威はいよいよ失墜する。三世紀後半、安全保障が損なわれた環境下、とりわけ前線に近い地方からは土地を捨てる農民が頻出し、都市への人口流入と地方の過疎化、および生産性の低下からくるスタグフレーションの進行が顕著となる。こうしてローマが弱体化していく中で、多くの人々は、自らのアイデンティティを、あるべき生き方と来世の幸福を説く強力な一神教、すなわちキリスト教に求め始める。
 
 第XIII巻『最後の努力』は、後期帝政の創設者・ディオクレティアヌス帝(284年即位)から「大帝」コンスタンティヌス(337年死去)までの治世を描く。ディオクレティアヌス帝は、西方と東方で統治を分担するニ頭政、およびさらに四頭政のシステムを開発し、安全保障面で一定の成功を得る。しかし同システムは、統治領域間での柔軟な用兵の可能性を奪い、各皇帝直属軍の創設に伴う軍の肥大化、4つの首都に代表される官僚組織の肥大化を招く結果となる。この負担は重税となって一般市民に回され、アウグストゥス以来の簡素・明瞭な税制は、「国家は税収の許す範囲のことしか手掛けない」から 「国家に必要な経費が、税として納税者に課される」ことを主眼とした制度へと変貌する。また同皇帝は、帝国防衛のため軍事専門家を育成・動員する観点から、文民のキャリアと軍人のキャリアを完全に分離する改革を実施した。これによりローマ伝統の、両キャリアを経験する指導者は生まれなくなり、また元老院の発言権も大きく削がれることとなった。他にも、食料品等の価格統制の導入、地方過疎化を食い止めるための職業の世襲化などを実施。加えて、同皇帝の後を継いで帝国の安定に努めたコンスタンティヌス帝が、新都コンスタンティノープルの建設、立法機関としての元老院の有名無実化(皇帝勅令の国法化)、金本位制の導入および結果としての貧富の差の拡大(官僚、軍人、大生産者のみが金貨で収入を得られた)などを通じ、帝国の形を文字通り大きく作り変えた。 
 本書で詳述される、両皇帝の宗教に対する考え方の相違も興味深い。いずれも、皇帝権力が不安定化した3世紀の教訓を踏まえ、より高次な存在からの授権を通じた絶対的な権威を得る必要に迫られていたことでは共通していた。ディオクレティアヌスは、古代ギリシャ・ローマの最高神ユピテルの名を冠することで、その権威を求めた。対照的にコンスタンティヌスは、ギリシャ・ローマの神々のように「人間を助ける神々」ではない、信仰の道を指し示す「人間に命令する神」であるキリスト教の神の性質に着目。313年「ミラノ勅令」によって、それまで抑圧の対象であったキリスト教を完全に公認、伝統的なギリシャ・ローマの多神教と遜色ないレベルにまで引き上げた。塩野氏によれば、「ローマ法とローマ皇帝とローマの宗教というゆるやかな輪をはめることによって、まとまりを保ってきた」ローマが、そのひとつの輪を外したのである。加えて、過去の弾圧時の没収資産の国家補償、皇帝資産からの寄贈、聖職者階級の独立に対する支援を行い、神の代弁者たる司教を懐柔した。またニケーア公会議を主導、アリウス派でなく三位一体説をもって正統とし、塩野氏いわく「真実への道を説かれただけでは心底からは満足せず、それによる救済まで求める生きもの」である人間の本性に応える形で、キリスト教世界宗教になってゆく道を開いた。
 
 第XIV巻『キリストの勝利』は、皇帝コンスタンティウス(337年即位)から皇帝テオドシウス(395年死去)までの治世を描く。コンスタンティヌス大帝の没後、二男のコンスタンティウスが単独の皇帝として実権を握った。彼は父親の親キリスト教路線を強化、事実上の免税特権をもキリスト教会/聖職者に与えた。これ以降、官僚と軍人、聖職者が既得権益層として市民の上に居座る、流動性のないヒエラルキーが本格的に所与のものとなる。続くユリアヌス帝は、哲学の徒であった経験、現実主義、一神教がもたらす弊害への懸念から、こうした傾向にいったん歯止めをかけるも、その死後はキリスト教優遇政策は完全に復活、テオドシウス帝の時代には遂にキリスト教は国教として認定されることになる 。高級官僚出身で政治に長けたミラノ司教・アンブロシウスの一連の策謀も、皇帝の神格化(司教による皇帝のあやつり人形化)を一層促すことになった。その間もゲルマン人の侵入は止まらず、重税の影響もあって、地方の農民は権力を持つ土地所有者の下での庇護を求め、自作農から小作農、すなわち農奴へと変化してゆく。
 
 第XV巻『ローマ世界の終焉』は、テオドシウス帝死去に伴う帝国の東西分裂(395年)から、西ローマ帝国の滅亡(476年)、東ローマ帝国によるイタリア半島での対ゴート戦役(6世紀)までを描く。西ローマ帝国では、テオドシウス以降の皇帝の無策もあり、度重なるゲルマンの侵入にもはや組織だって抗うことすらできない。二度のローマ劫掠やフン族による北イタリアの蹂躙、ガリアや北アフリカヒスパニアにおける事実上の統治権の放棄を経て、遂に476年、ゲルマン人のローマ将軍・オドアケルの蜂起ののち次期皇帝に誰も即位せず、という形で、首都ローマを頂く帝国は遂に滅亡する。東ローマ帝国も、ゲルマン人や東方のササン朝ペルシアとの戦乱に忙殺され、西方を気にする余裕がない。オドアケルに続いてイタリア半島を支配した東ゴート族を駆逐すべく戦役を開始するが、逆に現地には戦乱とその後の重税による疲弊をもたらし、結局はロンゴバルド族の侵入を許す。以後、地中海世界は、専制君主や豪族による大規模農園支配、イスラム海賊の伸長、キリスト教会の台頭などに象徴される、かつてローマが実現した「パクス・ロマーナ」とはまったく対照的な、一般の民衆にとっては暗鬱とした、中世の時代に入ってゆく(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/26026375.html
)。

 通常版で15巻にも及ぶ長い読書の後に湧き上がってきたのは、かような栄華を保った国でさえもやはり衰亡するという、大げさにいえば諸行無常の感覚である。発展期・絶頂期のローマは、ローマ人の合理性と開放性、柔軟性が、全体として良い方向に機能し続けた。先見の明に満ちた指導者の出現、無能な指導者を追放する絶妙なバランスの上に成り立つ政治システム、優秀な者が登用される高い社会流動性、農業と流通(及びその基盤となる公共インフラ)に支えられた高い経済力、軍事力に裏打ちされた他民族への寛容政策。後代の諸大国や現代の先進国を見ても、ここまで開放的な形での発展を見た国はそうはない。ローマが初めて本格的な構造的問題に直面した時期、すなわち共和制が機能不全を起こしていた時期には、カエサルアウグストゥスが帝政への移行を実現した。初期帝政は、すでに述べたとおり元老院や市民が承認し、無能とわかった時には挿げ替えられる、いわば「チェック機能を持った」帝政であった。ブータンの雷龍王4世は、君主制のことを「悪者が国王になる確率が5割ではリスクが高すぎる」と言ったそうだが(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/34358086.html
)、悪い王をスクラップできる君主制というものがもし存在するとすれば、民主主義のデメリットを打ち消しうる理想的な政体である、ともいえるかもしれない。しかしローマの初期・中期帝政が、外敵の侵入による安全保障の低下、短期間に繰り返される度重なる政権交代によって、より高次な存在からの授権を伴う絶対君主制(後期帝政)への移行を余儀なくされたように、それすらも未来永劫続くものではない。結局のところ、国家の政体ですらもその時々の要請に応じて作り変えることを厭わないような、長期的かつ現実的な視点を持った有能な指導者の登場と、それを生み出すような人材と精神の土壌の分厚さこそが、その国の盛衰の長短を決める最大の要素ではないか、と最近では思い始めている。

(新潮社、2001~2006年)

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