Foomin Paradise (読書ブログ)

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塩野 七生 『ローマ人の物語 V~X』

 『ローマ人の物語』全15巻のうち、初代アウグストゥスから五賢帝の四人目アントニウス・ピウスまで初期帝政下のローマを描く。X巻は、ローマ人が後世に残した数々のインフラに特記して解説する。

 第VI巻『パクス・ロマーナ』は、カエサルの遺志を次いで帝政を完成させた、アウグストゥスの治世を描写する。塩野氏は、同皇帝のことを、カエサルほどの才はなかったとしつつも、衰えた元老院に代わり皇帝が統治する時代をもたらすために、したたかに慎重に、国内における自らの戦いを完遂した不屈の人物として描いている。内乱終結後、まず時限的な特権の放棄と共和政への回帰を宣言、元老院の熱狂を巻き起こすも、執政官のポストや「インペラトール」の称号は棄てずに実質的な権力を残すくだりなど、鮮やかというほかない。内閣の創設、前線となる属州のアウグストゥス直轄制度、国土防衛のための常備軍の創設など、共和政の一員として振る舞いつつも、長期的に帝政を支えてることになる数々の制度を、少しずつ組み立てて行った。
 アウグストゥスが、カエサルの意図に反して行った政策の一つは、東方の防衛ラインをエルベ河まで拡張することである。他の前線と違って、ゲルマンの蛮族を相手にせねば成らないこの作戦は困難をきわめ、エルベ河の戦線は結局、次代ティベリウスの治世に撤回されることになった。「絨毯爆撃」のように未開の森をくまなくさらうやり方以外にはこの地の制服は困難、としたカエサルの分析は正しかった。また彼は、完全な実力主義者のカエサルとは対照的に、後代の皇帝に統治の正当性を与え政治的安定をもたらすために、自らの後継者を選ぶにあたって自らの「血縁」を重視した。とはいえ、この血縁へのこだわりは身内の不和を生み、結局は血のつながりのない婿養子のティベリウスが彼の後継者となる。

 第VII巻『悪名高き皇帝たち』は、2代皇帝ティベリウス(紀元14年即位)から5代皇帝ネロ(68年死去)までの治世を描く。カエサルアウグストゥスの改革を次いで、帝国の基盤を盤石なものとしたティベリウス。強権や緊縮財政のために当時の評は芳しくなかったようだが、塩野氏は、現実主義と堅実さを兼ね備えた同皇帝の業績を評価している。続く若き3代皇帝カリグラは、外交でも財政でも失政を重ね、近衛兵に暗殺される。急遽登板した4代皇帝クラウディウスは、体力と統率力に難があったものの、歴史家故の豊富な知識を持ち堅実な統治を進め、反対論を押し切って属州の優等生ガリアにも元老院の席を与え、ローマの開国路線を決定づける。僅か16歳で5代皇帝に就任したネロは、東方の大国パルティアとの友好関係樹立など一定の業績を残すが、師セネカの引退後は、母殺しに続く妻殺しやキリスト教徒の残虐な弾圧など、人心を離れさせる愚策を次々犯す。リヨン属州総督のガルバがこれに決起、元老院もネロを見捨て、ユリウス・クラウディウス朝は終わりを告げる。
 本書の最後に示される初期帝政の権力図は、世界史上類を見ない「チェック機能を持つ」ローマ初期帝政の構図を理解する上で大変役に立つ。「プリンチェプス」は、絶大な権力を有しながらも、就任に際して市民と元老院による承認を必要とし、また軍からは忠誠の誓約を得る必要がある。就任後も、例えば市民や元老院による種々のチェック機能が働くほか、皇帝に足りないと見なされたカリグラやネロの場合には、軍が文字通りその息の根を止める役割を担った。このシステムは、アウグストゥスが巧妙に帝政を既成事実化していった帰結であり、実際のところ、広大な国土を効率的に治めるという時代の要請にうまく応えた。ユリウス・クラウディウス朝が終わりを迎え「血縁」が途切れても、創設者の意図とは関係なくその後も帝政という政体だけは残ったのは、当時のローマ人が、この政体をプラグマティックに評価していたことの証である。塩野氏は「ローマ人が考える血統とは、現代で言う付加価値ではなかったかと思う。ローマ人はあくまでも、実力の世界の住人であったのだ」、と述べている。

 第VIII巻『危機と克服』は、皇帝ガルバ(68年即位)から五賢帝の一人目ネルヴァ(98年死去)までの治世を描く。内乱下の3皇帝を経て、東方の司令官を務めていたヴェスパシアヌスが皇帝に就任。内乱を終わらせ、ガリア地方とユダヤ教徒の反乱を鎮圧、危機の克服に努めた。また内政も堅実な運営を見せ、詳細な国勢調査の実施と徴税とをもって、財政の健全化に努めた。続くティトゥス帝の病没を経て就任したドミティアヌス帝は、ライン川河とドナウ河をつなぐ「ゲルマニア防壁」の構築、ダキア族との平和協定締結など一定の業績を残すが、元老院と対立のすえ、死後に一切の業績を消滅させる「記録抹殺刑」を決議されてしまう。五賢帝の一人目とされるネルヴァは就任時既に70歳、属州出身のトライアヌスを後継に指名した後、僅か1年強の治世をもって死を迎える。

 第IX巻『賢帝の世紀』は、初の属州出身皇帝となるトライアヌス(98年即位)から、ハドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝(161年死去)に至る治世を描く。現実主義者のトライアヌス帝は、育英資金制度の構築など帝国の基盤強化に尽力するとともに、二度のダキア戦役を通じて、先帝が結んだ「屈辱的な講和」にかえて武力で同地域を属州化することに成功する。同戦役の戦勝金を使って帝国全土に無数の主要インフラを建設。晩年には東方に遠征し、パルティアの首都クテシフォンを落とすところまで行くが、メソポタミア諸侯による反攻の最中に病没する。後を継いだのは、東方遠征軍の総司令官であるハドリアヌス。彼は東方遠征をひとまず終わらせ、各地で相次いでいた辺境の反乱を鎮圧。その後、帝国全土に多くの旅行を行い、ブリタニアでの「ハドリアヌス防壁」建設を始めとする防衛ラインの再構築、軍制の見直しと規律の強化を行った。「ローマ法大全」の編纂も実施。また先鋭化していたイェルサレムユダヤ教徒による反乱を完全に鎮圧。以降、イェルサレムユダヤ教徒は各地への離散(ディアスポラ)を余儀なくされ、ことあるごとに反抗を繰り返していたユダヤ教徒の反乱は以降のローマ帝国ではみられなくなった。続くアントニヌス・ピウス帝も、前帝とは違って首都ローマからのリモート・コントロールによってではあったが、賢明かつ堅実な統治に務め、帝国は文字通り最盛期を迎えることになる。

 第X巻『すべての道はローマに通ず』は、時系列の通史から一旦離れ、ローマ人が残したインフラのうち街道と橋、水道、およびソフト面のうち教育と医療について詳説している。昔、世界史の教科書で、現存している南仏ニームの水道橋「ポン・デュ・ガール」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB
)の写真を見て、2000年前にこのような巨大インフラを整えた民族が居たことに驚嘆したのを覚えているが、それすらもローマ人が成した膨大な「インフラ」の僅か一端でしかなかったことを、本書は教えてくれる。全土に八万キロも張り巡らせた、歩道付き二車線の幹線道路。数十~数百キロ離れた水源から衛生的な水を引いてくるための水道。紀元前4から3世紀に生きた政治家アッピウス・クラウディウスが、自身の名を由来とする最初の街道(アッピア街道)と水道(アッピア水道)を建設させてから、帝国が崩壊するまで数百年もの長きにわたり、これらのインフラは文字通りローマの生命線として維持され続けた。なかには、19世紀に統一イタリアがその有用性に目を付け、復活させたものもある(マルキア水道)。ローマ帝国が崩壊してから19世紀に入るまで、欧州・地中海地域でついぞこれをしのぐインフラ群が現れなかったことを考えると、多様な民族と文化を包含しつつ広大な地域にわたってパクス・ロマーナを体現したローマという国は、人類史上の奇跡であったとすら思えてくる。またソフト面のインフラについて触れる本書の後半は、カエサル時代に「自由市場化」された教育・医療の発展と、キリスト教の台頭に伴い両分野が徐々に「公」の範疇となってゆく過程が、現代における「大きな政府」「小さな政府」の議論にも通ずるようにも感じられ、興味深い。

(新潮社、1997~2001年)

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