Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

フョードル・M・ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟』

イメージ 1

 気質も思想も異なるカラマーゾフ家の3兄弟が織りなす人間模様のなかに、神と信仰、家族と愛、様々な問題を織り込んで描いたドストエフスキーの代表作。

 物語の中心となるのは、情熱的で豪放磊落なドミートリィ、知性派の無神論者のイワン、純粋無垢の修道者アリョーシャというカラマーゾフ家の三兄弟。ドミートリィは、ひとりの女性を巡って強欲の実父フョードルと対立する。その最中にフョードルが何者かに殺害される事件が起き、状況証拠の数々からドミートリィが起訴される。アリョーシャは兄の心を信じ、彼の無罪を主張する。イワンは独自に事件の背景を探り、自らの過去の言動が、図らずも真犯人の動機に大きな影響を与えていたことを知る。

 有名な「大審問官」の章では、無神論者の次男・イワンが、神を信じる三男・アリョーシャに「人間は、キリストが与えた良心の自由などという重荷に耐えられる存在ではない」と民衆にパンを与える代わりに彼らの自由を圧する大審問官についての寓話を投げかける。話を聞き終えたアリョーシャは、イワンをこの大審問官になぞらえ、まるで寓話の中に出てくるキリストのように接吻する。(イワンが信ずる理性や、ドミートリィが信じる放蕩の力によって押さえつけられてきた、彼の魂の解放を願ったのかもしれない。)

 訳者である原氏の解説によれば、ドストエフスキーは、ローマカトリック教皇至上主義を批判し、そして当時兆しを見せていた社会主義にも、同じ人間の精神の自由を圧する性質を見出していた。これに対する形で本書で配せられるのがゾシマ長老とその弟子であるアリョーシャであり、彼らは、素朴な民衆の精神のうちに自由と幸福を見出した。原氏の解説の言を借りれば、「ロシアの大地に結びついた信仰」であり「各人の自己完成に基づくキリスト教社会主義による世界の統一」である。ゾシマ長老が回顧する若き日の客人の言にも、「個人の特質の真の保証は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今や至る所で人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています」との告白がある。

 こうしてドストエフスキーが信じた世界と思想は、21世紀の現代でも輝きを失っていないように見える。ロシアで結実した社会主義は、20世紀の終わりに崩壊した。本書でやり玉に挙げられたローマ・カトリックも、その性質を、少しずつ開かれたものに変えざるを得なくなっている。一方で、中世に逆戻りしたかのような過激な宗教原理主義や、グローバル資本主義に裏打ちされた物質主義も台頭しつつある。本当の意味での自由や幸福とは何か、そのための信仰のあり方は何か。こうした主題は、人類史始まって以降不変だし、(突然変異で脳の構造に変化が起きたりしない限りは)今後も個人にとって最大の課題のひとつであり続けるだろう。

 文藝春秋編『東大教師が新入生にすすめる本』で「あるいは、読まないほうがいいのかもしれない。一度読んだら最後、宙吊り状態におかれかねない。たいへんな問題にいくつも出くわしてしまったらしいことはわかるのだが、決定的な答えはあたえられていない・・・」と紹介されているとおり、この長編が投げかけるものは大きくて重い。単純にサスペンス小説のように読み流すことも出来なくはないが、それでは余りにもったいない。当方は30歳を過ぎてからこれを読んだが、より多感な10代の時期に読んでいれば、人生観はまた変わっていたかもしれない。

(原著:1880年
 邦訳:原 卓也 訳、1978年、新潮文庫、上・中・下巻)

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-db-4e/s061139/folder/555377/47/39853147/img_0_m?1440918980