Foomin Paradise (読書ブログ)

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ミハイル・ゴルバチョフ 『ゴルバチョフ回想録』

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 ソ連共産党最後の書記長、最初で最後のソ連大統領だったゴルバチョフ氏による回顧録

 同氏の回顧録はその後何冊も出ているが、本書はそのうちもっとも包括的なもの。単行本で上・下巻、1500ページを超える長さで、第一部は生い立ちから書記長になるまで、第二部は書記長・大統領時代の内政、第三部は西側諸国との外交、第四部は社会主義諸国との外交、第五部はクーデターと失脚の1991年について詳しく描いている。
 
 階級闘争と中央集権、イデオロギーを特徴としたソ連社会において、なぜゴルバチョフ氏のような改革者が生まれ出たのか、というのは誰もが抱く疑問だ。本書の第一部は、当事者の視点からその経緯を詳しく描き出している。祖父がスターリンの抑圧によって投獄されたこと。故郷スタヴロポリにドイツ軍が進軍してきた戦争時代。農場で朝から晩までコンバインで大地を耕した経験。モスクワ大学で学んだ幅広い知識。こうした要素が、批判精神にあふれ特定のイデオロギーに拘泥しないゴルバチョフという人間を育てた。党官僚として現実の問題に次々に取り組んで行く一方、多忙な中でも読書や勉強を書かさず、政治や社会についての自らの考えを深めて行く。また頻繁に現場に足を運ぶことで農業生産と農民生活の現場を誰よりも良く知っていた同氏は、中央から出される政策や指令がいかに現実からかけ離れたものであったかを肌で知っていた。同氏が実務家として精力的に働いた1960年代から70年代は、その歪みによって経済が低迷し、また病気によってまともに執務できない書記長が続くなど指導部は停滞していた。若く有能で実務に長け、かつ何より忠実なレーニン主義者(でありソ連共産党の守護者)と思われたゴルバチョフは、党内で多くの支持を得た。
 
 書記長就任以後のゴルバチョフの行動と、それを取り巻く環境の変化は、まさに激動である(第二部~第五部)。ペレストロイカと新思考により、国内政治経済の自由化と外交面における平和・非干渉主義の貫徹はソ連を生まれ変わらせることになった。外交では大きな成果を得るも、内政については、保守派と急進改革派の間に挟まれ、漸進的な手法を取らざるを得なかった。新たに創設された議会と大統領、弱体化した党の間に生まれた権力の真空に、急進的な改革主義者・民族主義者が雪崩を打って入り込む。本書の折々で同氏自身が認めるように、側近人事の失敗、台頭する民族主義への対応が後手に回るなど、早すぎる社会の展開にゴルバチョフ自身が追いつけなくなってゆく。1991年8月の保守派側近によるクーデターを経てもなお同氏は新たな枠組み(新連邦)でのソ連存続の準備を進めるが、エリツィンらによる同12月のベロヴェシ合意によって頓挫、ソ連解体を余儀なくされる。本書を通じてエリツィンに対しては常に厳しい評価が加えられており、道半ばで職務を放棄せざるを得なかったゴルバチョフ氏の無念が滲み出る内容となっている。
 
 稀代の改革者・ゴルバチョフ氏の思想の根本は何なのか。それは本書第四部の終わり、第41章で詳しく明らかにされている。同氏は自身のことを「共産主義者であり、社会主義者であり、民主主義者」であると語る。「単純な二元論でイデオロギーを語るべきではない」「いかなるイデオロギーもその時代背景に応じて解釈し直されねばならない」とも述べている。要するに、当時のソ連社会の現状、農民や労働者にとっての自由・幸福という観点から、レーニンが唱えた社会主義を、自らの解釈により定義し直したのだった。ソ連研究者のブラウン氏はこれを「社会民主主義」と言ったが、これは本書でゴルバチョフ自身が語っていることとかなり近いように思われる。「与えられた条件のもとで可能な限り、社会的公正が最大限に保証され、人々が自分の才能と創意を発揮でき、同時に国家が社会的弱者層の生活をしかるべく配慮するような社会的機構を作ることを目指す。」ゴルバチョフの中ではあくまで「社会主義」の内にとどまる思想だったが、少なくとも従来のソ連が掲げてきたスターリン共産主義とはまったく異なる性質のものだった。

 本書を読んで分かるのは、ゴルバチョフ氏はやはりとんでもない理想主義者だったという点だ。上記のような「社会民主主義」をソ連が導入することじたい当時としては夢想だっただろうが、その帰結はともかく、少なくとも政治的自由と一党独裁の解体、西側諸国との関係改善と冷戦の終了までは、自身の信念を貫き通して実現させた。その背後には、それまで自身が自らの知性と理性、(暴力でなく)他者との対話によって大きな仕事をなし得てきたという自負もあっただろう。ただ、それによって何でも出来るという過信につながったのか、政権末期には側近の裏切りやエリツィンの自尊心と野心の大きさを読み切れなかった、あるいは読んでいても冷徹に対処できなかったことが、結果として政権の命取りにつながった。またこうした姿勢はときに日和見主義、リーダーシップのなさと受け取られ、とくに政権末期は経済運営のまずさもあいまって、民衆からの支持も離れていった。

 とはいえ、そこいらの単なる理想主義者とはスケールが違う。「長年の私の経験から断言できるのは、民族問題解決の道は唯一つ、友好関係を維持することだ。力に依存して圧力を加えても解決の見通しは生まれない」と述べ、その考えを実行した。実際のところ同氏が指導者だった時代、あれだけの強大な自国戦力と紛争リスクを抱えていながら、ソ連はただの1回も武力を用いなかった(リトアニアの「血の日曜日」事件に関しては、本人曰く、知らされていなかったもの)。一連の東欧革命にあたっても、各国共産党からの軍事支援要請をすべて拒否した。こうした行動があったからこそ、ゴルバチョフの語る理想は全世界の市民に支持され、西側の指導者からの信頼を勝ち得るに至ったのだった。自国での評価はともかく、ソ連民主化や冷戦の終結といった圧倒的な成果があればこそ、その点における彼の世界史上の存在感は決して薄れることはないだろう。

 個人的にはゴルバチョフ期のソ連と?眷小平以降の現代中国を比較しつつ読み進めるのも興味深かった。中国は、政治体制の変革やチベットなど民族主義の台頭には徹底した態度でのぞむ一方、経済では大幅な自由化を行い、目を見張るような経済成長と貧困削減を成し遂げることで国内の不満を抑えこんできた。なぜゴルバチョフには同じことが出来なかったのか。とはいえ、この疑問はゴルバチョフ自身によって本書で明らかにされている。同氏は存命時の?眷小平と北京で会っているが、これはまさに天安門事件の1ヶ月前のことで、市内では民主化・自由化を求める学生の声が大いに高まっていた。さかのぼること10年、当時の中国はすでに改革開放を経験していたが、その結果社会の格差は拡大し、共産党高官の汚職は目に見えてひどくなっていた。「政治面の自由を抑えつつ経済を自由化する」というのは中国共産党の立場から見た成功なのであって、抑圧・搾取された民衆の側がどれだけ幸せなのかは推し量るよりほかない。また前述したように、社会主義世界の盟主であったソ連が、外交面で西側諸国の信を得るためには、国内のイデオロギーの改革も進めるほかなかった、というのも真理であったろうと思う。ゴルバチョフ氏が進めたパッケージは文字通り包括的で、政治経済社会のあり方すべてを変えるものだったが、それまでの矛盾の度合いがひどかった分、その揺り戻しは強烈だった。本書でわかるように同氏は可能な限り改革を「漸進的」に進めようとしたが、最後はその揺り戻しのスピードに押し流された。しかし、ゴルバチョフ以外に誰がこのソ連での改革をなし得たのかを考えるとき、やはり「ゴルバチョフしかいなかった」という結論に落ち着かざるを得ないように思われる。

 ゴルバチョフ氏が生きた人生は、どんな小説やドラマよりも面白い。その一切が示された本書は、本人が書いたという点をある程度差し引いて読む必要はあるが、それでもなお一読の価値がある。あまり知られていない1990年代の中東和平交渉や湾岸戦争に当時のソ連が果たした役割にも触れられている。また日本との関わりについても、北方領土交渉(ゴルバチョフ本人は当初日本側にとってこの件がいかに重要か分かっていなかったようだが)を含め、一定の記述がある。

(原著:1995年(ロシア語版)
 邦訳:工藤 精一郎、鈴木 康雄 訳、1996年、新潮社、上・下巻)

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