Foomin Paradise (読書ブログ)

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アーチー・ブラウン 『ゴルバチョフ ファクター』

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 ソ連史研究の第一人者であるオックフフォード大学のブラウン氏による、ソ連末期の変革にゴルバチョフが果たした役割について論じる本。

 ブラウン氏は、ロシアや西欧の一部で今なお見られるゴルバチョフの業績に対する批判を踏まえた上で、その政治家・変革者としての役割を全体として肯定的に評価する。1985年時点で、ソ連が自らのイデオロギーを捨て去ることなど誰も予想できなかった。社会主義世界の民主化や冷戦の終結といった一連の変革は、「ゴルバチョフというファクター」抜きには到底なされ得なかったというのが本書の主張である。本書は、ゴルバチョフの生い立ちから連邦大統領辞任までの彼の行動を詳しく追うとともに、その時々のソ連の政治社会状況を活写していく。

 同氏は、ゴルバチョフが直面した「四重の変革」のうち、①政治体制の変革、②外交政策の変革については評価する一方、③市場経済への移行と④国内の民族間関係への対応については十分な対策を講じられなかったとする。経済面では独占の排除や価格の自由化は行われず中途半端な市場改革に留まったほか、「民族主義が連邦と民主化過程の両方に重大な緊張関係をもたらすとは夢にも思」っておらず、対応は終始後手に回った。とはいえこの点についてもブラウン氏は「(他の指導者であれば)もっと深刻な失敗に見舞われる余地もあった」と擁護する。現代中国の例を知っている我が身からすれば「なぜ経済改革を政治体制の改革に先んじられなかったのか」という疑問も湧いてくるが、本書によれば、この4つの改革は当時のソ連では互いに相関しており、一気に進めざるを得ないものだった。たとえば階級闘争イデオロギーを捨て西側との冷戦解消を実現しなければ、軍需に偏った生産は民需に振り向けられることはなかった。「時とともに急進化する改革のプロセスは、特に、共産主義の組織や規範が深く根づいているソ連の場合、共産主義体制を平和裡に変革する『唯一の』道だったのだ」という。

 結局のところ、ゴルバチョフが目指した体制は何だったのか。本書によれば、スペインのゴンサレスら西ヨーロッパの社会民主主義者が奉じていた体制である。本書で紹介される彼の言葉をそのまま引用する:「私に取って社会主義とは、目標に向かって邁進する運動である。社会主義が目指すのは、自由であり、民主主義の発達である。また、国民の生活を向上させるための環境整備である。それは、人間性を向上させることである。その意味で、私は社会主義者であった。そして、今も社会主義者である。」この目指す社会体制を実現するためには、プロレタリア独裁階級闘争に象徴される従来のレーニン主義を捨てることを厭わなかった。彼はきわめて柔軟で、現実主義者であり、理論と自分の目で確かめた証拠とのあいだに矛盾が生じると「好んで後者を信じた」。ただし連邦制の解体までは意図しておらず、その権限を大幅に緩めた各共和国の連合体としての新連邦条約を、クーデターの直前まで準備していた。
 
 1991年12月にソ連が崩壊したとき当方は小学生だったが、当時の新聞・テレビが大々的にこのニュースを報じたのを今でも覚えている。しかしその後の長引く旧ソ連地域の紛争・経済停滞を見るにつけ、ゴルバチョフの急進的な改革は正しいものだったのかという疑念も湧いた。歴史に「もしも」は禁物だが、それでも1991年にゴルバチョフがもう少し部下を掌握していれば、あるいは新連邦条約の調印がもう少し早ければ、彼は新連邦の指導者として今度こそイデオロギーを気にせず経済改革に没頭できたかもしれない。周縁部の民族紛争への対応も、エリツィンプーチンがしたような軍事力一辺倒での対応にはならなかったかもしれない。ソ連(とその後を継いだロシア)が不幸だったのは、未完だった経済改革・民族紛争への対応に対処できる後継者に恵まれなかったという点だろう。近年のグルジアウクライナへの侵攻を見るにつけ、この国があたかも前々世紀の帝国主義時代に後戻りしているかのような印象さえある。

(原著:Archie Brown, "The Gorbachev Factor" Oxford University Press. 1996
 邦訳:小泉 直美、角田 安正 訳、藤原書店、2008年)

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