Foomin Paradise (読書ブログ)

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ヴィクター・セベスチェン 『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』

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 ハンガリー生まれのジャーナリスト・セベスチェン氏が、関係者の証言や最新の関係資料をもとに、1989年東欧での民主化革命がどのように起きたかを多角的に描いたノンフィクション。
 
 本書で取り上げられるのは、東ドイツチェコスロバキアポーランドハンガリールーマニアブルガリアの6カ国。いずれも第二次大戦後にソビエト連邦の管轄下におかれ、共産党一党独裁のもと統治されてきた国々である。1956年ハンガリー動乱や1968年プラハの春といった自由化の動きは軍事介入により鎮圧されるなど、「宗主国」たるソ連の統治は強固なものだった。この流れが1985年のゴルバチョフの書記長就任によって変わる。自由を求める民衆の声が高まり、権力を独占してきた各国共産党の指導者たちは徐々に居場所を失って行く。1989年、自由化運動が先行していたハンガリーポーランド共産党一党独裁が終焉を迎える。11月にはベルリンの壁が崩壊、ブルガリアのジフコフ政権が崩れ、チェコスロバキアではビロード革命が起こった。そして12月、強権体制がもっとも強固に見えたルーマニアでも、クーデターによるチャウシェスク夫妻の処刑という劇的な形で独裁の幕が下りる。

 本書は、こうした動乱期の東欧を、それを成したキーパーソン達の動向を中心に、ジャーナリストらしく淡々と描き出して行く。本書を読んで改めて気付かされたのは、各国の民主化の背景にあった経済的ファクターの大きさだ。70年代から80年代にかけてソ連経済の不均衡は深刻化しており、衛星諸国を経済的に支援する余裕はなくなっていた。ただでさえソ連と東欧諸国との経済関係は「ソ連から原材料を供給し東欧諸国から工業製品を輸入する」ものであり、また悪化したこれら諸国の財政はソ連(そして西側諸国の金融機関)からの経済支援や借款に頼らざるを得なくなっていた。本書によれば、たとえば「東ドイツでは1980年代初頭には、所得の60パーセントが債務返済に充てられていた」。そしてベルリンの壁が崩壊する直前、東ドイツの指導部は、ベルリンの壁を西ドイツからの追加融資の「交渉カード」として使うことすら想定しており、実際に西ドイツ側にその件を打診していたという。

 また、ゴルバチョフが各国の民主化において果たした役割の大きさも、やはり特筆すべきだ。彼は、この動乱期制に各国共産党の指導者からソ連による庇護、ときに軍事介入を要請されるが、各国自身が解決せねばならない問題だとして一切省みなかった。それどころか、東欧諸国への軍事介入は一切控えるよう軍に厳命していた。彼にとって高齢の各国の共産党指導者(東ドイツのホーネッカーやルーマニアチャウシェスクブルガリアのジフコフら)は、自身の権益のために旧時代のイデオロギー固執する、ペレストロイカ抵抗勢力のようなものだった。とはいえ本書によれば、ゴルバチョフ自身はここまで性急に東欧諸国の民主化ドイツ統一が成されるとは思っておらず、ましてやこれら諸国が「ソ連の同盟国」という立場をそう易々と離れるとは考えていなかったようだ。しかし本書がずばり指摘しているように、「衛星圏の共産主義ソ連の前任者たちが銃剣を突きつけて押し付けたもの」に過ぎず、これら諸国の民衆は、自由主義圏に加わる方向へとあっさり舵を切ったのだった。
 
 1989年の東欧革命からはや25年が過ぎた。ベルリンの壁崩壊をはじめとする一連のニュースは当時の日本でも大々的に報道されたが、当方はまだ子どもだったので微かにしか覚えていない。果たして東欧革命は歴史の必然だったのだろうか。たとえば旧東西ドイツの格差は今でも大きな問題だし、EU全体を取ってみても旧西側との発展度合いの差は依然埋まりがたいものがある。しかしながら硬直したソ連共産主義のくびきを離れ、自らの意思によって政治的自由と資本主義を選択したこれら諸国の人々の歩みは、おそらくこれからもそう簡単には変わることはないだろう。

(原著:Victor Sebestyen, "Revolution 1989: The Fall of the Soviet Empire" Weidenfeld & Nicolson, London. 2009.
 邦訳:三浦 元博、山崎 博康 訳、2009年、白水社

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