Foomin Paradise (読書ブログ)

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『新約聖書』

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 イエス・キリストやその使途たちの言行がまとめられた、『旧約聖書』と並ぶキリスト教の正典。その一部(福音書)はイスラム教の啓典でもある。

 例によって新約聖書の構成を大まかに述べると、以下のとおり:

1 福音書:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる計4点の福音書を指す。イエスの生涯とその言行が伝記形式でまとめられている。弟子たちへの「山上の説教」、盲目の病人を治すなどの奇蹟、ユダの裏切りと最後の晩餐、十字架への磔と復活といった有名なエピソードが含まれる。

2 歴史書:イエス死後の使徒らの行動を記録した「使徒現行録」。ペテロら使徒は、イエスなき後、自らの手で宣教を開始する。キリスト教の開祖であるとされるパウロは、初めユダヤ教徒としてキリスト教を迫害したが、回心して異教徒らへの布教に務め、最後にはローマに向かう。

3 書簡:使徒パウロによる14の「パウロ書簡」、他の使徒らによる7の「公同書簡」から成る。書簡とはいえ特定の個人に宛てて書かれたものではなく、広く読まれることを想定した公の文書である。信仰と律法、愛や正義といった問題についての、キリスト教における解釈が示される。

4 黙示文学:使徒ヨハネが受けたキリストの啓示が記された預言書「ヨハネの黙示録」。キリスト教の終末論を最も端的に示す文書で、世界の終末に起こるであろう出来事(七人の天使、二匹の獣、千年王国最後の審判など)が描写される。旧約聖書「ダニエル書」の影響を受けている。

 『新約聖書』を改めて読むと、キリスト教旧約聖書に描かれたユダヤ教の世界とはまったく異なる宗教であることが良くわかる。旧約聖書の神は荒々しく、契約に基づく選ばれた民としてイスラエル人/ユダヤ人を導くが、いっぽう新約聖書において語られる神は慈悲深く、懺悔と赦しを通じて万人を救う存在として描かれる。イエスは律法の理に縛られ形式化したユダヤ教ファリサイ派)を攻撃し、彼らの手によってローマ帝国に引き渡される。しかしその教えはパウロ使徒達に引き継がれ、厳しさを増すローマ社会の中で信者を増やしていく:「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。・・・そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤの信徒への手紙3)と説くキリスト教は、ユダヤ人の排他的な宗教に過ぎなかったアブラハムの宗教を、万人を救済しうる世界宗教の地位にまで押し上げた。

 今回『新約聖書』を読むにあたり、新共同訳、作家の佐藤優氏が解説している文春新書を読んだ。ただの新共同訳聖書よりは高価だが、上記の4つの構成ごとに同氏による詳細な解説が付されており、初心者にとっては参考になる。たとえば「マタイによる福音書」の解説では、男性が他人の人妻と姦淫した場合は死刑に処せられるとした旧約聖書の律法について、イエスが「みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と男性に警告する下りをあげ、イエスは単なる行動でなく人間の心情を正確に掴むことで、結果として旧約聖書の律法が「より高いレベルで完成する」と解説する。「常識について述べた後、『しかし、わたしは言っておく』と述べ、常識を覆す反対命題を出し、結果として、表面的には常識とそれほど異ならないが、本質的に異なる意味をもつ世界に人間を誘う、というのが、イエスの話術の特徴だ」という。

 巻末に付されている「私の聖書論」では、佐藤氏の生い立ちとキリスト教との関わり、一般的な非キリスト教徒の日本人に取っての聖書の読み方などが、より詳しく紹介される。たとえば同氏のご両親の宗教観の違いについてのエピソードから、たとえば禅宗は座禅といった自らの行動を通じて自力で悟りにたどり着こうとする宗教だが、キリスト教は「他力本願」であり、「キリスト教は(救済に至る方法としての)ヒューマニズムを信用しない。強いて言えば、神がイエス・キリストを通じて人間に働きかける『神のヒューマニズム』だけを是認する」ことが示されている。当の佐藤氏は当初無神論に関心があったが、神学部への入学後に考えを変え、洗礼を受けた。「フォイエルバッハマルクスが批判する神は、キリスト教の神ではなく、人間の願望を投影した、キリスト教が排斥する偶像であることに気付いた」からだと言う。佐藤氏によれば、この世には「目に見えるもの(意識)」と「目に見えないもの(無意識)」があり、聖書を読むことによってこの「目に見えないもの」が刺激される。「目に見えるもの」に傾倒しがちな現代社会において「目に見えるこの社会を支える背後にある『見えない世界』を感知する力」を取り戻すことが必要だという。

 新約聖書は、旧約聖書よりもずっと薄く、冗長なくだりもないので読みやすい。「私は言っておく」が口癖のイエスの言は、ウィットに富み、人間の本質を突いている。自分はどちらかというと無宗教だし、かつ「他力本願」のキリスト教ではなく、どちらかというと仏教や神道のほうにシンパシーを感じる人間だが、佐藤氏の言うような「目の見えないもの(無意識)」の重要性は何となく分かる。世界は個人の理性だけで動かせるようなものではなく、「目に見えるもの」や頭で論理的に理解できるものだけでそれを理解しようとするのは危険。「目に見えないもの」への敬意を保ちつつ、特定の宗教に自らの運命全てを委ねることもしない、そんなバランスが取り続けられれば良いなと思う。

(新共同訳、解説:佐藤 優、2010年、文春新書)

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