Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

ジャン・ハッツフェルド 『隣人が殺人者に変わる時 加害者編 ルワンダ・ジェノサイドの証言』

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 ジャーナリストのハッツフェルド氏が、ルワンダのジェノサイドに加害者として関わった人々の証言を集め、再構成した本。
 
 数多刊行されているルワンダのジェノサイド本の中でも、本書は出色。類書ではほとんどカバーされていない加害者側の証言を、丹念に拾っている。ジェノサイドを生き延びた被害者(サバイバー)の側は、辛くともその真実を外部者に知ってほしいという思いを持っているだろうし、ルワンダの現政権もこれを奨励している。対して加害者の側は、特別な場合を除き、自ら犯した罪について積極的に外部者に語ることは稀である。旧ツチの現政権が統治するこの国で、加害者経験を詳細に告白する社会的メリットはない。ルワンダのジェノサイドに関する分析は数多あるが、その裏付けたりうる、実際に殺戮を行った者たちの生の証言はきわめて少ないのが現状だ。
  
 著者のハッツフェルド氏は、こうした難関を、刑務所に収監されている加害者の「グループ」、かつ既に裁判が終わって重い量刑が確定している(証言が罪の軽減に影響せず、すぐに塀の外に出られないことが分かっている)人々にターゲットをしぼることで乗り越えようとした。それでもインタビュー当初は真実を隠したりねじ曲げて伝える傾向が見られたものの、何度も刑務所に通って関係を築くうち、少しずつ真実と思われるストーリーを聞き出して行った。ジェノサイドから20年が経過した現在、虐殺実行者の多くは法の裁きを受けて出所しており、既に新たな暮らしを始めている彼らが当時の記憶をいまさら積極的に語り始めるとは思えない。そういう意味で本書は、その方法論に限界はあったかもしれないが、少なくともそれが成しうる絶妙なタイミングで、当時払いうる最大限の注意と努力をもって書かれた本だといえる。

 本書を読んで改めて痛感させられたのは、ジェノサイド遂行にあたって物質的動機が果たした役割の大きさだ。加害者たちが語るストーリーはきわめて生々しい。彼らは、昔から近隣に住んでいたツチに対して漠然とした違和感を持っていた。彼らは概して裕福で多くの土地と家畜をもっており、一方でフツ農民たちは狭い農地に押込められるように暮らしていた。一部の例外をのぞいて両者が婚姻関係を結ぶことはなかった。虐殺開始後、近隣のサッカー場で開かれた政府集会でツチ根絶が呼びかけられ、地元のフツ農民は他地域から派遣されてきた民兵(インテラハムウェ)の指揮下に編入される。彼らは当初は殺人に戸惑いを見せるも、殺戮がヒートアップして行くにつれ、その戸惑いは薄れていく。この蛮行を継続させた大きな要因は、ツチの人々から略奪したカネや物資が、貧しいフツ農民にとっては極めて魅力的だったということだ。彼らは虐殺したツチの資産、すなわち現金から土地、衣服、家電製品、自転車、調理器具、トタン屋根に至るまですべてを略奪し、いっときの豊かな暮らしに酔いしれた。その期間は畑を耕さずとも、ツチから奪い取った牛を焼いて毎日のように食べることができた。そうした戦利品をめぐって虐殺者のフツ同士が諍いを起こすことさえあったという。

 こうしたエピソード、とくに土地の取り合いに関する部分からは、当時も今もアフリカ随一の高い人口密度をもつルワンダという国が持つ危険なファクターを思い起こさずにはいられない。この国を一度訪れた人なら分かると思うが、「千の丘の国」と呼ばれるこの国のほとんど全ての土地は、一部の自然保護区を除き、それぞれの丘の頂点に至るまでことごとく開墾されている。この人口圧の高さは今でも解消されておらず、もって将来の政治不安の火種になりかねないことは、前々回の投稿でも記した。事実、ジェノサイドの最中にこのファクターがどのような作用をもたらしたのか、本書はきわめて生々しく描写している。

 また本書のインタビューから垣間みれるのは、トップからの指示に従順でコミュニティ内の同質性に重きを置く、かつての王制下のムラ社会の特質を色濃く受け継いだ人々の気質である。虐殺の開始前にその計画を知らされていたのは地域で一握りの役人や有力者だけだったが、ひとたび指示が下されると、多くのフツ農民らは虐殺の実行者としてまたたく間にマチェーテ(山刀)を持ってツチの人々を打ち始めた。マチェーテをうまく扱えない者に対しては慣れている者が注意を与え、そうした者は「注意をしっかり聞いていたことを証明するため、家の前や湿地で以前より上手くツチを打ったり、仲間の目の前で殺人をしたりしなければならなかった」という。こうした殺人者たちの思考回路は、外部の人間にとってはにわかには信じられないものだ。しかし、上記の物質的動機に加え、こうした政府からの命令と、虐殺への不参加は許されない雰囲気とがあれば、似たような社会環境に身を置く人間であれば、理性の枷を容易く外せてしまえるものなのかもしれない。

 彼らがインタビューに応じた動機はさまざまに解釈できる。幾名かは、真実を語ることによって赦しを得られるはずだと、神による救いを口にする。またハッツフェルド氏が用意した報酬もそのひとつだろう。同氏は彼らへのインタビューにあたり、食料や日用品、薬品を提供し、また塀の外の家族の近況も伝えていた。同氏によれば、彼らはジェノサイドという異常なプロジェクトに巻き込まれた自らの運命を呪い、被害者からの「赦し」をいとも簡単に乞う。刑務所の中で常に冷静を保ち、精神を乱される様子もない。「殺人者たちは、真実と誠意と赦しが一体となっていることがわかっていない」と、ハッツフェルド氏は彼らへの嫌悪感を隠さない。「(ジェノサイドの)特異な性格が殺人者たちには身の潔白を与え安心させているのも事実である。おそらくそれで彼らは狂人にならなくて済んでいるのだろう。」もっともらしく神への懺悔を口にして、外国人のインタビューに答えるのは、彼らにとってさほど難しい作業ではなかったのかもしれない。
 
 それにしても、日本でルワンダのジェノサイドに関する関心が未だに高いことに驚かされる。本書の原書発行は2003年、さまざまな言語に訳され反響を読んだが、邦訳は西京高校インターアクトクラブの有志が行い、2014年に入ってから出版された。一昨年には、長らく邦訳が待たれていたロメオ・ダレールの回顧録が、原著発行から約10年を経て刊行されている。きっとルワンダのジェノサイドがもつ衝撃は、国や時代を超えて普遍であることのひとつの証左なのだと思う。(個人的には、経済発展の進んだ今日のルワンダの様子も知ってほしいとも思うが)この史上まれなジェノサイドの記憶を風化させずに語り継ぐのは人類史にとって必要なことであり、その意味ではこうしたプロセスが続いて行くのは純粋に歓迎すべきことである。

(原著:Jean Hatzfeld "Une Saison de Madhettes: Recits" 2003.
 邦訳:西京高校インターアクトクラブ(服部 欧右)訳、かもがわ出版、2014年)

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