Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

イマキュレー・イリバギザ 『生かされて。』

 ルワンダのジェノサイドを、隣人のトイレで100日間に隠れ生き延びた、ツチ族の少女による手記。

 イリバギザ氏は、ルワンダ西部のムタバ村で、地元のツチ族有力者の元に生まれ育ち、1994年のジェノサイドを学生時代に迎えた。虐殺勃発後、兄の機転により、近所の親しいフツ族の牧師の家に庇護を求め、牧師は渋々ながらも、自分の寝室に据え付けられているクローゼット型のトイレの中に、他のツチ族女性達とともにイリバギザ氏をかくまう。ジェノサイドが終わるまで、彼女らは牧師がこっそり差し入れる水と食事のみを頼りに、100日間を生き抜いた。その中で彼女は、聖書とロザリオを手に神との対話を続け、虐殺者達を赦す境地に至る。そして牧師から辞書を差し入れてもらい英語を勉強、脱出後に新政府下で国連の職を得る。

 ある日トイレに隠れている夜中、家のすぐ近くで女性の悲鳴が聞こえ、続いてその赤ん坊が殺人者達に道路に打ち捨てられる音が聞こえてきた。イリバギザ氏は、「どうして、罪のない子にこんなことが出来る人たちを赦す事が出来るのでしょう」と神に問いかける。すると、「あなたたちは、皆、私の子どもたちです。あの赤ん坊は今、私と一緒にいます」という声が聞こえ、その刹那、「殺人者たちは子どもたちと同じなのです」「彼らは、自分たちがどんなに恐ろしい苦痛を与えているかわかっていないのです」「彼らの心は、悪魔に占領されているのです。それは、この国じゅうに広がっています。でも、彼らの魂は悪魔ではないのです。恐ろしい事をやっていても、彼らは、神の子どもたちなのです」と理解する。そして「私は、神の子どもたちを愛する気がないのならば、神の私への愛も期待することは出来ないとわかったのです」という境地に達し、その時点からイリバギザ氏は、虐殺者たちのために「彼らの罪をお赦しください」と祈り始めるようになる。
 仏軍に保護され、戦争が終わり、キガリで国連に職を得た後、イリバギザ氏は故郷に戻り、自らの家族の遺骨を掘り返し弔う。そのときに殺人者たちへの憎悪と復讐心が彼女を襲うが、それでもなお、神との対話との経て、彼らを赦す:「私の家族を傷つけた人々は、もっと自分たち自身を傷つけているのです。人の道に外れ、神様に反する犯罪のために彼らがさばかれることは間違いありません」。そして刑務所で、自らの家族を殺した男に、自らの口で直接、「あなたを赦します」と語りかける。ツチ族の地方長官は「なぜだ」とイリバギザ氏をなじるが、「赦ししか私には彼に与えるものはないのです」と明確に答える。

 殺人者たちを赦せず、神との決別に至ったルラングァ氏とは違って、なぜイリバギザ氏は、自らの家族を手にかけた殺人者たちを、赦すことができたのか。氏の信仰心の強さ、神への純粋な信頼は確かにその一因だろうが、それだけではすっきり腑に落ちない感じもする。理由の一つには、その虐殺現場を、直接自分の目では見なかったこと、また自分自身については肉体的には傷つけられなかったこと、が挙げられよう。また仏軍キャンプで出会った孤児達を見て、「彼らの人生に希望と幸せをもたらすように努力し、彼らから両親と家族の愛を奪うことになった人種間の憎しみを、彼ら自身が抱くことのないように導こう」と決意。英語の件もあいまって、ジェノサイドの最中にそうした仕事上の目標を持つ事ができたことも、その一つかもしれない。そして邪推かもしれないが、憎悪と復讐心のみに囚われていては、自身の精神的な平穏と幸福は訪れようもないという、誤解を恐れずにいえばある種の自己防衛本能のようなものが働いたのではないかとも、考えざるには得られない。人間は、とくに極限の状況下では、何かしらの希望を抱いていないと生きていられない(例えばナチス強制収容所に収容されたユダヤ人の中では、人生上の希望を有している人ほど長く生き延びたという)。
 だがそれでもなお、本書では語られないが、残虐で過酷なジェノサイドの記憶は、ルワンダを離れて以降のイリバギザ氏を幾度となく苦しめたのではないか、と推測する。本書の随所で読み取れる、氏の心の強さに改めて感銘を受けるとともに、ニューヨークでの新しいご家族との生活と幸福が、永遠のものとして続いて行くよう、心から願う。

(原著:Immaculée Ilibagiza, "Left to tell", 2006, Hay House Inc,. USA
 邦訳:堤 江実 訳、PHP文庫、2009年)


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