Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

米原 万里 『オリガ・モリソヴナの反語法』

 米原氏が、自身のソビエト学校時代の経験を下敷きに綴った、自身初のフィクション。主人公である元ダンサーの志摩が、ソ連崩壊後のモスクワで、プラハソビエト学校時代に教わった舞踊教師オリガ・モリソヴナのルーツを辿っていく。
 エンターテイメントであり、骨太なミステリーでもあり、壮大な歴史小説のようでもある。志摩は、ソビエト学校当時の記憶、モスクワ各地に残る記録や関係者の証言を手がかりに、オリガの半生を徐々に明らかにしていく。1930年代に政治犯として処刑されるはずだった彼女が、どうやって大粛清を生き延びたのか。なぜプラハソビエト学校の舞踊教師になったのか。物語は中盤、スターリン時代の圧政と、監獄や収容所での人々の暮らしを、生々しく描写する。夜中に突然秘密警察のノックを受け、家族と引き離され、劣悪な環境の留置場で勾留された後、遠隔地の収容所に送り込まれ、厳しい労働の中で人間性を奪われてゆく。
 オリガと同じ収容所で暮らした、もう一人のソビエト学校教師・エレオノーラの半生は、オリガのそれにも勝るとも劣らない壮絶さである。フランスで成功した実業家の娘だった彼女は、中国共産党員の夫とともにフランスを出て活動のためにソ連に渡るが、他国の共産主義者をも牙にかける粛清の嵐のなか、政治犯として勾留されてしまう。しかし自らの息子を堕胎させた当時の尋問官にプラハで再会したとき、エレオノーラが彼にかけた言葉は、なぜか感謝の言葉だった。背負わなくても良かった罪の意識に一生苦しめられた彼女の悲壮な真実は、最後の数ページでようやく明らかになる。
 歴史が示すように、共産主義と官僚制あるいは独裁制は表裏一体だが、未だその全容が明らかになっていないスターリンの大粛清は、そのなかでも冷酷さと非人間性において際立っている。大粛清のさなか、人々がどうやって人間性を失わず、自ら運命を切り開いていったか。本書はあくまでフィクションだが、実際の大粛清の中では、自らの不条理な運命に逆らおうとした、数多くのオリガやエレオノーラがいたはずである。本書が突きつけるテーマはとても重いものだが、多くの謎が明らかになった終幕、タイトルにもなっている「オリガ・モリソヴナの反語法」が、オリガの教え子であり養子であるジーナによって再び繰り返されるシーンでは、清々しく前向きな気持ちにさせられる。若干冗長なパートもあるが、それを補ってあまりある、深く練られたプロット。米原氏の早すぎた死が、つくづく悔やまれてならない。

集英社文庫、2005年)

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