Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

V・E・フランクル 『夜と霧』

 ユダヤ人の精神学者であるフランクル氏が、戦時中にドイツの強制収容所に収監された体験を綴った体験記。

 収容時の消毒室で、学術書の原稿の保持を侮蔑とともに却下されたときに「それまでの人生をなかったことに」する心理的反応を自らが示したエピソードに始まり、フランクル氏はあくまで科学者として、収容所で体験した辛苦を客観的に淡々と描写してゆく。幅2.5メートルの板に9人が、横向きに並んで、汚れた靴を枕にして寝るしかなった状況でも泥のように眠れること、半年間同じシャツを着て、ろくに体も洗えず土木工事の強制労働をし、手足は傷だらけになっても一切化膿しなかったことなどを挙げ、「人間はなにごとにも慣れる存在」である、と述べる。人間としての尊厳を徹底的に奪う、収容所の非人間性を示す生々しい具体的な描写の数々に、思わず息を呑む。
 被収容者の過酷で気まぐれな運命を示すもう一つのエピソードは、連合国軍の進駐直後、態度を豹変させた親衛隊員が、捕虜交換と称して収容所の病人を多数トラックで連れて行った際、フランクル氏は名簿漏れ・定員オーバーで同乗できず失意のどん底に叩き落されるが、その日トラックで連れられた集団は、証拠隠滅の一環として別の場所で建物に閉じ込められて火を放たれた、というものである。まったく幸運にして、フランクル氏が生き延びて戦後を迎えたのも、運命の女神によるほんのいたずら程度の結果でしかなかった、と言うしかない。
 収容所でのフランクル氏に生きる希望を与えたのは、妻子への愛と、解放後に科学的見地から自身の体験を発表したいと言う研究上の目標の二つであった。収容所全体を見渡しても、人格や尊厳が徹底的に排除されるなか、もともと内面のよりどころを有していた人、つまり内面への逃避が容易で、その中で生きる上でのモチベーションを発見できた人のほうが、そうでない人よりよく生きた、という。この極限状態を体験したフランクル氏の言には説得力がある。現代の日本人がいきなりこうした環境に放り込まれる事態は想像しがたいものの、一般論として、日頃から精神的な強さを育んでいる人ほど、逆境に強いというのは本当であろうと思う。
 
 解説の霜山氏によれば、フランクル氏は同時期に収容された妻と息子を、強制収容所で亡くしたという。本書では決して明かされないが、愛する妻子を、まったく非人間的にモノのように葬られ、それをどうすることもできず、収容中は知ることさえ叶わなかったフランクル氏の嘆きは、どれほどのものであったか。「SHOAHhttp://blogs.yahoo.co.jp/s061139/22651507.html
)」では、体験者の回顧は断片的に紹介されるのみだが、今回、一人の被収容者による詳細な体験記を読んで、ホロコーストの残虐さと非人間性を、改めてまざまざと脳裏に刻んだ。
 当時のドイツ第三帝国で一握りの権力が有していた悪意と優生思想、大多数の国民の熱狂と無関心が、世界史でも稀なジェノサイドを生んだ。一般に人は、被害者との物理的・精神的な距離が離れるほど、そしてイデオロギーや思想に凝り固まるほど、躊躇なく人を殺すようになる(無人飛行兵器の遠隔パイロットのように)、と言われる。大戦後の、ルワンダやバルカン、ダルフール等での同様の悲劇を見れば、果たして人類が70年前と比べて進歩しているのか、大いに疑問に感じざるを得ない。

(邦訳:池田 香代子 訳、2002年、みすず書房
 原著:Viktor Emil Frankl. "Ein Psychologe Erlebt das Konzentrationslager" in ...'trotzdem Ja zum Leben.' 1977.)



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