Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

レフ・トルストイ 『アンナ・カレーニナ』

 これまで読もうと思っていて読めなかった長編古典小説を読んでみようシリーズその2。
 身も蓋もなく一言で言ってしまえば「壮大な不倫小説」なのだが、トマス・マンが「少しも無駄のない、全体の構図も、細部の仕上げも、一点の非の打ち所のない作品」と語ったとおり、全篇を通して無駄な描写は一切なく、壮大な伏線が終幕に向けて一気に回収されてゆく様は見事としか言い様がなく、悠久の時を超えて聳え立つ大伽藍のようである。

 高級官僚カレーニンの妻・アンナは、官僚としては有能ながらも冷酷で皮肉屋の夫と心を通わせることができない中、感受性豊かで自信にあふれた若手将校・ヴロンスキーと運命的な出会いを果たし、後ろめたさに苛まれながらも、ついに夫と息子を捨ててヴロンスキーと新たな生活を始める。しかし社交界における縁をほぼ全て絶たれた格好となったアンナは、ヴロンスキーからの愛情だけが自らの生をつなぎ留めていることを悟り(にも関わらず自らの病によって男児の出産が不可能となり)、夫の抵抗によって離婚と息子の引き取りがついに不可能となり精神的に追い込まれ、最期はヴロンスキーに対する根拠なき嫉妬・疑念による失意の中、線路に身を投げ非業の死を遂げる。
 無情なカレーニンは、「思想と感情によって他人の内部に立ち入ることは、カレーニンには程遠い精神活動であった」との描写が象徴するとおり、知識と世間体だけが全ての人間であり、外に対してはアンナだけが一切の非を被るような見せ方を貫き、離婚を承諾せず息子も手放さないことでアンナを徹底的に罰する。アンナは愛情と人間性、誠実さにあふれた魅力的な女性として描写されるが、その心に素直に従ってヴロンスキーと共に歩んでしまったばかりに、ついに破滅してしまうのである。トルストイが生きた19世紀のロシアの貴族社会は、訳者によれば「虚偽と欺瞞に満ちた社交界」なのであり、そうした社会は結果としてカレーニンの味方をしたわけで、現実世界の冷酷な側面がありありと強調された、表面的には救いのない結末となっている。

 一方、アンナとヴロンスキーの破滅的な恋愛の対極として描かれるのは、アンナの義姉の妹にあたるキチィと地方貴族(地主)のリョーヴィンによる、ペテルブルクやモスクワの社交界とは対照的な、実質的で豊かな地方での新婚生活である。不器用な二人は、互いの一言一句に喜び、悩み、ときには衝突しながらも、精神的に充実した日々を送ってゆく。本作の最後は、自身の哲学や宗教を持ち得ないことに悩んでいたリョーヴィンが、長い長い思索のうちに、「いまやこのおれの生活は、おれの生活全体は、おれにどんなことが起ころうといっさいおかまいなしに、その一分一分が、以前のように無意味でないばかりか、疑いもなく善の意義をもっていて、おれはそれを自分の生活にあたえることができるのだ!」と認識するシーンで締めくくられており、民衆の素朴な生活のうちに救いを見出しつつあった壮年期のトルストイの思想の一端を垣間見ることができる。

(邦訳:木村 浩訳、1972年、新潮文庫、上・中・下巻
 原著:1877年)

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