天木 直人 『さらば外務省! 私は小泉首相と売国官僚を許さない』
本書は、天木氏がイラク戦争勃発にあたり本省に宛てた、国連決議なき米国の先制攻撃の阻止及び中東和平の早期再開を求める意見具申の内容を紹介するところから始まる。当時の日本でも、安易に米国に追随することの是非についてメディアや識者の間で意見が割れたが、結局日米同盟に固執する官邸と外務省が押し切る形で、日本政府は早々に米国支持の方針を表明した。当時当方は学生だったのだが、政府のあまりの視野の狭さに、学生なりに幻滅したのを覚えている。同氏も本書で書いているが、アラブ諸国の人々の日本に対するイメージがだいぶ悪化したことは間違いなかろうと思う。
外務省職員の日米同盟への偏重は相当のもののようで、天木氏が目にした栗山・元条約課長作成の内部用冊子では「(日本が軍事攻撃された場合の米国による防衛可能性について)助けてくれないかもしれないなどと疑念を抱くこと自体、誤りであり米国に対して失礼である」との意見が開陳されており、同冊子が日米安保条約を担当する同省実務担当者の間で「バイブル」と呼ばれていたとの由。仮にこうした米国への妄信が外務省職員のスタンダードであるなら、上述の意見具申公電が省内で異端とみなされたのも頷ける。
外務省職員の日米同盟への偏重は相当のもののようで、天木氏が目にした栗山・元条約課長作成の内部用冊子では「(日本が軍事攻撃された場合の米国による防衛可能性について)助けてくれないかもしれないなどと疑念を抱くこと自体、誤りであり米国に対して失礼である」との意見が開陳されており、同冊子が日米安保条約を担当する同省実務担当者の間で「バイブル」と呼ばれていたとの由。仮にこうした米国への妄信が外務省職員のスタンダードであるなら、上述の意見具申公電が省内で異端とみなされたのも頷ける。
もう一つ、最近はめっきり聞かれなくなった国連安全保障理事会の常任理事国入りについてのエピソードも興味深かった。確かに歴史とロジックで少し考えれば、日本の常任理事国入りなど殆ど不可能のはずだが、暇をもてあましていた波多野・国連大使、続く小和田大使がこの破天荒かつ耳障りのいいアイデアを声高に言い出したのをきっかけに、日本政府は長いこと海外に対して無謀なロビーを続けることになった、というのは、官庁であれば如何にもありそうなストーリーである。
本書の大部分は、外務省幹部の能力・性癖、サボタージュや会計犯罪についての暴露が中心となっている。ひとつひとつのエピソードは、天木氏の溜飲を下げる意味では一定の意味があると思うが、同氏の訴えに全面的に共感できるまでの内容か、と言われればいささか答えに詰まる。例えばカナダ大使の公金横領についてのエピソードがあるが、自身が同大使館の「出納責任者」でありながら、大使への意見具申はしつつも、結局事態を改善するまでには至らなかったとの由。しかし「私は空いた口が塞がらなかった」と何処か第三者気取りで、当事者としての国民(読者)への謝罪は一言もない(佐藤優氏(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/35385380.html
)は同様のエピソードを披露する際には謝罪の言を付している。もちろん本人が本当にそう思っているかどうかは別問題だが、少なくとも記述すらしていないということは、自分には責任がないと本心から思っているか、或いは自らの非を認めるのを自尊心が邪魔しているか)。小和田・元国連大使の「缶切り」エピソードに至っては完全に小学生のいちゃもんつけレベルである。終盤の「国民一人ひとりが次の諸点に問題意識を持ち、自分なりの意見を持つようにならなくてはならないと考える」とのくだりも、ご説ごもっともだが、上から目線がありありと感じられて釈然としないし、肝心の「諸点」も原則論の域を出ておらず、独りよがりな理想家の憂さ晴らしに付き合わされたような、何ともいえない微妙な読後感が残る。
本書の大部分は、外務省幹部の能力・性癖、サボタージュや会計犯罪についての暴露が中心となっている。ひとつひとつのエピソードは、天木氏の溜飲を下げる意味では一定の意味があると思うが、同氏の訴えに全面的に共感できるまでの内容か、と言われればいささか答えに詰まる。例えばカナダ大使の公金横領についてのエピソードがあるが、自身が同大使館の「出納責任者」でありながら、大使への意見具申はしつつも、結局事態を改善するまでには至らなかったとの由。しかし「私は空いた口が塞がらなかった」と何処か第三者気取りで、当事者としての国民(読者)への謝罪は一言もない(佐藤優氏(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/35385380.html
)は同様のエピソードを披露する際には謝罪の言を付している。もちろん本人が本当にそう思っているかどうかは別問題だが、少なくとも記述すらしていないということは、自分には責任がないと本心から思っているか、或いは自らの非を認めるのを自尊心が邪魔しているか)。小和田・元国連大使の「缶切り」エピソードに至っては完全に小学生のいちゃもんつけレベルである。終盤の「国民一人ひとりが次の諸点に問題意識を持ち、自分なりの意見を持つようにならなくてはならないと考える」とのくだりも、ご説ごもっともだが、上から目線がありありと感じられて釈然としないし、肝心の「諸点」も原則論の域を出ておらず、独りよがりな理想家の憂さ晴らしに付き合わされたような、何ともいえない微妙な読後感が残る。
(2003年、講談社)