Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

佐藤 優 『交渉術』

 元外交官の佐藤氏が、自身の経験を紐解きつつ、人間の欲望とそれに拠った交渉の技法を明らかにした本。

 自身の外交官時代の経験を紹介しつつ、ハニートラップや賄賂、酔い潰しといった「戦術」のあるべき使い方について考えを述べるが、現役外交官ならまだしも、今のこのご時世にこうした戦術を駆使してまで相手を攻略する必要にある民間人はそうは多くない気もする。ただ、「こちらが親しくなりたい相手に『友情の印ですのでどうぞ』と言って一万円を渡しても絶対に受け取らない。しかし、『この前パリに休暇で行ってきたのですが、空港の免税店であなたに似合いそうなネクタイを見つけたので、どうぞ受け取ってください』と言って渡したら、90パーセントの確率で相手は受け取る」といった様々なエピソードは、人間心理をうまく掴んでいるという意味で、読んでいて純粋に面白くはある。
 本書に拠れば、ブルブリス・元国務長官は1994年の佐藤氏との対話において、「何も見返りを求めず、相手の懐に入ることによって、自己の利益を極大化するのが交渉の弁証法だ」「(北方領土交渉でエリツィンに対して)『四島というのが国民のコンセンサスですから、二島とか三島という島の数を減らして妥協することはできません』と率直に言えばいい。その上で、『現在の国民感情からすると日露経済協力でできることはここまでです』と正直に言えばいい。この二つの事柄の間に日本側からリンケージをつけるな。そうすればエリツィン自身が何らかのリンケージをつける」と、当時の日本政府が取っていた人参(経済協力)を目の前にぶらさげて譲歩(領土返還)を引き出すような戦術を批判している。話のレベルは格段に違うが、なるほど日常の人間同士の機微なやり取りにも通じるポイントだ、と唸らされた。

 対露北方領土交渉に携わった当事者としての経験を豊富に紹介していることは、本書の最大の魅力である。「加藤の乱」で退陣を覚悟した森氏が、密室の中で佐藤氏に直接「加藤政権になっても、(北方領土問題で)俺に仕えるのと同じ気持ちで加藤に仕えてくれよ。・・・頼む」と頭を下げたエピソードや、「国民に対して『四島一括返還』と『四島返還』の間にある重要かつ微妙な違いを十年かけて十分に染み渡らせ、その十分な理解を得られなかったことは、反省すべき」という東郷氏の反省の弁。ここでいう「四島返還」は、必ずしも四島全てを同時に返還せずとも良い(段階的返還で良い)という考え方を指したものであり、佐藤氏は本書の中でその詳細については硬く口を閉ざしているものの、例えば「北方四島の北に両国の最終的な国境線を引き、北方領土が日本の領土であることを確認し、その一方で、日ロ政府が合意するまで四島返還を求めず、現状を変えずにロシアの施政を合法と認める(http://www.enjoy-l.com/K/SJ/00303.html
)」1998年の川奈提案はそのひとつである。
 1990年代から2000年代初頭にかけての一連の北方領土交渉は中々国民には見えづらく(外交交渉なのだから当たり前なのだが)、まさに東郷氏が漏らしたように経緯説明が不十分であったからこそ、二島先行返還論などの妥協案の検討に対して「国賊」との激烈な批判が加えられてきた。しかし実際には、互いに原則論を曲げない局面においては、問題解決のためには現実的な提案と双方の譲歩が不可避である。上述のブルブリス氏は同じ1994年の対話で、「北方四島スターリン主義による拡張の結果、ソ連領になった。・・・北方四島を日本に返還することによって、外交的にロシアがスターリン主義と決別したことが明らかになる。・・・(広範な世論の了解を得ることは)短期的には不可能だ。しかし、北方四島を返還した結果、露日間の経済関係や戦略的提携が発展すれば、いずれ国民は理解する。とにかくエリツィン北方四島を返還するという決断をすれば、あとはどうにでもなる」、とロシア国内のスターリン思想や、トップの意思に注目することの重要性を示していた。当時のメディアや国民が原則論に固執せず、こうした交渉の多様な側面にもう少し配慮していたなら、そして(鈴木氏や佐藤氏をパージした)当時の官邸や外務省が日米関係のみならず日露関係の重要性にも目配りする広い視野を持っていたなら、今ごろ北方領土交渉は異なった結末を迎えていたかもしれない。
 振り返ってみれば、本書に記された1990年代から2000年代初頭にかけてが、北方領土問題を解決しうる条件が整っていた最後の局面であったように思う。ロシアは経済的に厳しい局面にあり日本との関係構築に注目し、現地への経済協力が功を奏し現地住民の間でも返還に賛成する人々が増え、理想論に拘泥せず現実論と妥協で成果を積み上げようとする実務家集団がおり、何より両国首脳の間に個人的な信頼関係と問題解決の意欲があった。森政権の退陣から10年近くが経過したが、日本の外交が文字通り麻痺し、ロシアが名実ともに大国化しつつある現状においては、先日のメドベージェフ大統領の電撃現地訪問を見ても、悲観的に過ぎるかもしれないが、北方四島が日本の元に戻ってくる日はかなり遠のいた印象がある。

(2011年、新潮文庫

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