Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

山崎 朋子 『サンダカン八番娼館』

 1972年初版の後ベストセラーとして現在も版を重ねる『サンダカン八番娼館』の文庫新装版。山崎氏が天草で出会った元からゆきさんから聞き取った記録『サンダカン八番娼館』、彼女らの足跡を東南アジアにたどった続編『サンダカンの墓』の両方を収録。重いテーマを扱いながら、おサキさんの素晴らしい人間性が、一種の清涼剤のような役割を果たしており、単なるルポルタージュの域を超えて、パートによっては哲学書のような印象を与えている。

 発行からどんなに月日が尽きても意義の薄れない本というのは稀にあるが、本書も間違いなくそのうちの一つ。どこかの書評を手がかりにして何気なくアマゾンで購入したものだが、著者が天草の田舎の食堂で偶然にも「それらしき」老婆と邂逅する30ページ目辺りから俄然目が離せなくなり、一気に最後まで読み通してしまった。老婆おサキさんが辿ってきた足跡は、現代の日本人が日常で想像しうる過酷さや理不尽さを超越する。齢十に満たずして生家の貧困から自ら進んで国外に出、多いときには一晩で数十も客を取らされ、何とか帰国できても完全には故郷に馴染めない。彼女の「リアル」に触れ、これまでの自らの無知と想像力の欠如を恥じた。現代でもアジアやアフリカの貧困地区で子どもの人身売買や売春強制は常態化しているが(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/33073467.html
)、日本もつい最近まで同じ悲劇を頻繁に繰り返していたのである。
 加えて山崎氏は、からゆきさんの背景を必ずしも天草地方の厳しい自然条件のみに帰さず、当時の政府の女性を使った意図的な外貨獲得政策の流れの中にも位置づけている。富国強兵が整い、商工業によって近隣諸国への影響力を行使できるようになるまでは、当時唯一動員できた資源:人的資本によって外貨を稼がざるを得ず、からゆきさんがその尖兵を務めることになった、と言う。からゆきさんからの外国送金は相当な金額にのぼり、また外国娼館の存在は外国拠点の開拓に一役買っており、当時の政府は一貫して、女衒や外国娼館の取り締まりに真面目に取り組むことはなかった、とも。

 本書の後半部分(単行本『サンダカンの墓』に相当)で取り上げられる山崎氏の東南アジア取材は、このテーマに更なる奥行きを与えている。大正中期に海外廃娼令が出されて以降も、日本の東南アジアへの軍事・経済面での進出は盛んになるばかりであったが、本書はその負の側面を明確に描写している:例えば、戦時中にサンダカンに駐屯した旧日本軍が、「ゲリラ掃討」と称して現地の女性を陵辱しその目撃者を皆殺しにしたとの証言(当時の調査によれば、戦時中のインドネシアにおける日本人との混血児は約4万人もいたらしい)、戦後も日本企業が賠償の名の下に投資・貿易による「経済侵略」を推し進めてきた様子など。このような文脈を踏まえたうえで著者は、からゆきさんははやり「日本のアジア侵略の一環だったということにならざるを得」ず、都市開発に伴い日本人墓地を掘り返したメダンの出来事を引いて「からゆきさんの(現地の)墓地を永久保存せよと言うことは、わたしには口が裂けてもいえない」との結論に達している。

 以上の議論の持ち込み方には人によっては異論があるだろうが、少なくとも放っておくと忘れ去られてもおかしくなかった日本史の暗部を明確に陽の下に晒したという意味で、本書が果たした功績は大きいことは間違いない(からゆきさんの多くが他界された今となっては、当事者の生の体験を記した類書が発行される可能性は限りなくゼロに近い)。
 
(2008年、文春文庫)

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