Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

塩野 七生 『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』

 高校のときに読んだ世界史の教科書には、やたらヴェネツィア共和国の名前が登場した。現在でこそ運河と観光業で有名な一都市に過ぎない小国のヴェネツィアが、なぜ中世の地中海史において卓越した存在感を発揮できたのか、経済にも歴史にも疎かった当時は理解できなかった。その理解の浅さを大いに改めてくれたのが、2009年にようやく文庫化された本書である。

 文庫版の本書は全6巻から成っており、ゲルマン人の攻撃から逃れるために潟に拠点を築いた黎明期から、ナポレオンの進軍によって共和国としての息の根を止められる終末期までの1000年強にわたり、政治、経済、外交はもちろん、文化、土木、「三面記事」ともいえる社会や風俗に至るまで、ヴェネツィア共和国を包括的に取り扱った構成になっている。
 
 塩野氏は、「塩と魚しか持たなかった」ヴェネツィアが、自給自足の概念の欠如と交易の必要性から、他国の侵略を必要と考えない「海洋国家」として発展するのは自然なことであった、と述べる。成程、建国以来のヴェネツィアの歴史は、海運と貿易、それに伴う法と秩序、外交と情報戦、海運ルートを堅持するための軍事行動が主役である。本国の政体さえも、「共和国」でありながら寡頭政や君主政の性格を備えさせるなど、時代の要請に応じて柔軟に制度を変えることを厭わなかった。ヴェネツィア共和国は、オランダやイギリスの台頭によって周辺諸国による地中海交易の需要を失い、替わりに本土に有する領土を使っての農業や工業を振興したものの社会階層と貧富の格差の固定を招き、結果として国家としての斜陽を招いた。これは、建国当初のアイデンティティを、時代のうねりによって剥奪されたことによる、歴史の必然であったと言えるのではなかろうか。
 ここで、日本人である当方の思考回路は、四方を海に囲まれ同じく「海洋国家」と称される日本へと向かう。しかしながら、文字通りひとつの街の面積しか陸地がなく、そこから出るためには必ず船に乗ったヴェネツィア人と、一定面積の平野や山地を持ち自活が可能であった日本人とでは、人々の思考様式はかなり違うものであったと思う。日本人は、巨大な外圧によってしか開国の必要性を認識せず、ひとたび開国した後は無秩序な大陸進出に走るなど、一見「海洋国家」のようでありながら、交易ではなく侵略を第一とする陸地型の国家に限りなく近い行動様式を持っていたのではないか。グローバリゼーションの現代にあっていまだに内向きな日本の国民性は、捨てきれない陸地型の民族性の残滓であるようにさえ見える。終末期のヴェネツィアは経済の衰退とともに政治・外交にも精彩を欠いたようで、本書ではナポレオンの脅迫に右往左往する元老院の姿が描かれているが、アイデンティティを漂流させ外交にも内政にも精彩を欠く現代の日本を彷彿とさせる。

 などと色々と書き連ねたが、本書は読者によって幾通りもの読み方・解釈が可能である。塩野氏も、「なにもわざと面白い事象ばかり取り上げなくても、それ自体で既に面白いのが歴史である。教訓を得る人は、それでよい。しかし、歴史から学ぶことになど無関心で、ただそれを愉しむために読む人も、私にとって大切な読者であることには代わりはない。いや、そのような人を満足させえてはじめて、真にためになる教訓を与えることも可能なのだ」と言っている。ジェノヴァイスラム世界との息を呑むような鍔迫り合いの歴史、聖地エルサレムに向かう巡礼ツアーに見る経済国家としての面目躍如、女性に対する「奉仕する騎士」など何事にも合理的なヴェネツィア人が考え出した驚くような制度や慣習の数々。これも各所で目にする塩野氏の言を真似すると、ヴェネツィアの歴史と本書の面白さを十分に堪能しようと思えば、これはもう実際に本書を手にとって読んでもらうしかないように思われる。

(2009年、新潮文庫、全6巻)


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