Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

内田 樹 『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』

 哲学者の内田氏による、昨今の子どもたちの学びからの逃避、若者たちの労働からの逃避について、自身の考えをまとめた本。2005年に三浦展氏が『下流社会』という新書を出してベストセラーになったが、本書はタイトルからしてより刺激的。単に「下流」に転落したのではなく、自ら進んで「下流」を志向する傾向が若い世代の間で増えている、という厳しい持論を展開している。

 同氏は、「今の子どもたちと、今から三十年くらい前の子供たちの間でいちばん大きい違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違い」だと述べる。「労働主体は他者からの承認を得るまでみずからの主体性を確証できない。一方、消費主体は、他者からの承認に先立って貨幣を手にした時点ですでに主体性を確保し終えているという点にあ」ると言う。その結果、学校の子どもたちは忍耐と不快感を覚えてまで学ぶ必要性を理解できず、若者は低い賃金や不十分な評価に耐えてまで働く必要性を理解できない、要するに、経済的に「割に合わない」と感じてしまうのである。

 かくいう当方も、幼い時からお年玉でおもちゃを買い、大した家事をした記憶もなく、学校や親に「何で勉強しなきゃいけないのか分からない」とのたまい、「労働主体」ではなく「消費主体」丸出しの子どもであった。というか今のご時世、日本の殆どの子どもたちがそういう環境で育ってきたのではないかと思う。学生になって、大きな現金もおもちゃ屋もないアジアやアフリカの農村に行って、そこに住む子どもたちのたくましさや学びの意欲の高さにたいそう驚いたことを覚えている。

 生徒に「何で勉強する必要があるの」と聞かれて、大概の先生はまず絶句されるだろうが、そういう生意気な子どもにこそ、「いま勉強しておかないと、社会人として生きていくことができない」とはっきり叩き込む必要がある。子どもだから親の傘で守られているだけで、国語も算数も歴史も社会の仕組みも知らないで、まっとうに社会で暮らすことなどできるわけがない。
 と思っていたら、そう物事は簡単ではないようである。内田氏によれば、そうした「間違った等価交換」の起源は、おそらく家庭にある。「家族の中で『誰がもっとも家産に貢献しているか』は『誰がもっとも不機嫌であるか』に基づいて測定される。これが現代日本家庭のルールです」と言う。それぞれが、他人が存在することによって生まれる不快に耐え、それが家族だと思っている。そのルールに慣れた子どもは、学校でも職場でも、同様のルールを知らず知らずのうちに適用してしまう。これが本当だとすると、現代家庭に暮らす日本人は、救いようもないほど不幸である。

 内田氏の考えは、精緻なデータや証拠に基づくわけでは必ずしもないが、それでも真実の一端を突いているように見える。拠るべき哲学や宗教を持たない日本人にとって、他者との連帯は良くも悪くもひとつのアイデンティティだったはずだが、それすらも安直な個人の損得勘定に取って代わられたとすれば、日本の大地には後は何が残るのだろう。本書はとてつもなく大きな問題提起をしつつ、何か処方箋のようなものを提供してくれるわけではない。独りよがりでなく身の回りの他者の立場に立って物事を考えなさい、お金に換算できない体験や時間を大切にしなさい、というよく耳にした先人の教えを、今後の世代にも引き継いでいけるかどうか。言葉で語るのは簡単だが、身をもって範を示すのは容易ではない。

(2009年、講談社文庫)


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