Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

フョードル・ドストエフスキー 『罪と罰』

 これまで読もうと思っていて読めなかった長編古典小説を読んでみようシリーズその1。歴史に名を残す文豪の代表作ながら、難解そうな印象が一人歩きして今まで手をつけなかったが、一念発起して読んでみた。

 読み始めてみると、主人公ラスコーリニコフの身勝手な理想による殺人が完全犯罪となり、その彼が判事ポルフィーリィの尋問と苦悩の末に自白に至る過程はさながらこなれた犯罪小説のようであり、あっという間にページを手繰り終えてしまった。
 19世紀ペテルブルグに横溢する荒削りな理想主義と資本主義、キリスト教を下敷きにした登場人物の世界観・宗教観など、現代の日本の読者からすれば取っ付きにくい設定に慣れるまでやや時間はかかるが、特権階層にある人間は現行秩序を超えて行動することができると考えていた主人公が、(犯行によって明らかとなった)その凡百さ故に自責と後悔の念に苛まれ、慈愛に満ちた娼婦ソーニャの内に神による赦しの可能性を見出してゆく、という大きな流れを見出すことができれば、あとはそれほど難解ではない。「悪魔のやつあのときぼくをそそのかしておいて、もうすんでしまってから、おまえはみんなと同じようなしらみだから、あそこへ行く資格はなかったのだ、とぼくに説明しやがったということさ!」というソーニャに対するラスコーリニコフの慟哭は、時代や国に限らず若者が陥りがちな過剰な自己意識と独善的な理想のもろさを、みごとにあらわしている。

 巻末の工藤氏の解説によれば、ドストエフスキーは1960年代の改革に浮かれる若い世代に対し、本書によって「人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させることを説いた」のだという。ドストエフスキーは自らの生きた19世紀後半のロシアを題材として執筆活動を行ったが、そこで記されたテーマ、人間の本性を離れた理性の危うさは、時代や国を超えて普遍の重みをもっている。19世紀のドストエフスキーがなお世界で幅広い読者を獲得しているという事実は、このことを雄弁に裏打ちしているが、それはとりもなおさず、20世紀から今世紀にかけての文壇が彼に比肩するほどの人間や社会に対する洞察をついに成し得なかった、という残念な事実を暗に示しているのかもしれない。

(邦訳:工藤 精一郎 訳、1987年、新潮文庫、上・下
 原著:フョードル・ドストエフスキー、1866年)

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