Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

斎藤 貴男 『経済学は人間を幸せにできるのか』

 小泉改革批判で知られるジャーナリストの斎藤氏が、経済と経済学の課題について、中谷巌佐和隆光、八代尚弘、井村喜代子、伊藤隆敏金子勝の各氏にインタビューした結果をまとめた本。各氏の思想的背景や経済の実際問題についての率直な意見が語られている。

 中谷氏は「アメリカ経済学が大前提にしているのは、歴史や社会から分離され、自分の幸福を必死に追い求める、功利的な個人なんですね」「でも、ロジックで解決できる部分って、たぶん人間生活の二割か三割程度でしょう」と、かつて自身が傾倒したアメリカ経済学の限界を率直に指摘する。いっぽう「日本の強み、競争力の源泉は、現場の人たちの当事者意識の高さです」と、いち人間としての変節を正直に語るといえば聞こえはいいけれども、かつて日本の経済政策の理論的支柱とされた大経済学者の発言としては少々無責任のようにも聞こえてしまう。

 いっぽうマクロ経済学・金融論の重鎮である伊藤氏の言葉には、まだ学者としての重みがある。「(現実の経済政策の議論は)ジャーナルの世界で20年前に決着していることをいかに現実に応用するかという問題ですよね」「所得分配については、そうです(経済学者にものを尋ねる場合には、たずねる側がビジョンを用意しておく必要がある)。経済学者が自分で答えを書くところじゃない。それは政治家の役割です」「政策のほうである程度”こういったものを作りたい”ということを下ろしてくれれば、経済学はそれを解くことができます」。
 また、「成長か、格差か」といった安易な二元論には警鐘を鳴らし、物事を多角的に見る視点の大切さを説く。「誤解を恐れず、しかし本質的な点を言わせてもらうと、効率性を犠牲にして公平性を達成しようというのは筋が違う。・・・効率性を捻じ曲げてみかけの公平性を達成したとしても長続きしないし、社会全体の活力を失わせてしまう」と、至極まっとうな、あるべきスタンスをきっちり思い起こさせてくれる。
 
 もうひとつ印象的だったのは、佐和氏の「新自由主義が盛んになった1980年代以降は特に、マル経は科学でないのだから排除してしまえという傾向が強くなっていく。それにつれて経済学者もどんどん無教養になっていきました。歴史はもちろん、社会学にも政治学にも哲学にも無頓着、無関心にね」という発言。なるほどそういう見方もできるのか、と思わずはっとさせられた。マルクスの思想はもはや過去のものとなったが、それなりに推敲された歴史観・思想観を備えていた。数学を駆使する近代経済学は、社会科学全体を見通す広い視野を失いつつある、という警鐘である。
 思えば、経済学の始祖・アダム・スミスの例を挙げるまでもなく、近代の大経済学者は例外なく、人文科学や社会科学全般に通じた賢人だった。人間と歴史に対する深い洞察があってこそ、比較的歴史が浅い学問ながら、経済学の枠組みは正当性を持ちえてきた。もちろん当方はそうした偉人たちの足元にも到底及ばないけれども、理論と数式だけの世界にこもらず、人文科学・社会科学(できれば自然科学)にも手を拡げて、人間と世界にとって本当に大切なものを見失うことがないよう、広い視野を持ち続けていきたいと思う。

平凡社、2010年)

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