Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

山際 淳司 『スローカーブを、もう一球』

①本の紹介
 1995年に惜しまれつつ没した名ノンフィクション作家・山際氏のデビュー作。野球ファンの中ではあまりにも有名な、1979年日本シリーズ終戦の攻防を描いた「江夏の21球」(「Number」誌創刊号に掲載)を所収。

②印象に残ったパート
 本書には書名となっている「スローカーブを、もう一球」など野球にまつわる全8編の短編ノンフィクションが収録されているが、やはり印象的なのは「江夏の21球」。
 9回裏1点差、ワンアウト満塁のチャンスで打席に立った近鉄の石渡選手は「今でもまだそんなはずがないと思っている」。同選手がしかけたスクイズは、「みごとにはずされる」。「江夏の投球は外角の高めに外れ、しかも、曲がるように、落ちた。」
 後にその謎が明らかになる。江夏投手は明かす。「オレは投球モーションに入って腕を振り上げるときに一塁側に首を振り、それから腕を振り下ろす直前にバッターを見る癖がついている。これは阪神に入団して三年目くらいのときに金田(正一)さんから教わったものなんだ」「石渡を見たとき、バットがスッと動いた。来た!そういう感じ。時間にすれば百分の一秒のことかもしれん」「オレの手をボールが離れる前にバントの構えが見えた。まっすぐ投げ下ろすカーブの握りをしてたから、握りかえられない。カーブの握りのまま外した。」
 「江夏の21球」を彩るドラマは、江夏の投球術のみにとどまらない。江夏の、野球人としてのプライドがにじみ出る。9回裏ノーアウト満塁のピンチを江夏投手が招いたとき、ブルペンでは同僚の投手が投球練習を開始していた。ベンチの考えをよそに、広島の絶対的なリリーフを自負していた江夏投手はこう思った。「なにしとんかい!」。「ここで代えられるくらいならユニフォームを脱いでもいいんだ」、と。そのとき、一塁の衣笠選手はマウンドに近寄り、「オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」と告げている。「あのひとことで救われたという気持ちだったね」「胸でもやもやっとしたものがスーッとなくなった。」と、江夏投手は後に語っている。目前の佐々木選手を完璧なピッチングで三振に討ち取って、ワンアウト。
 そして石渡選手のスクイズを外し、3塁ランナーを殺してツーアウト。最後の石渡選手は三振。山際氏はこのマウンドを「江夏のためにあった」と評し、そして胴上げの直後、「江夏はベンチに戻り、うずくまって涙を流したという」、の一文で締めくくっている。
 
③読後の感想
 ともすれば単なる江夏投手のピンチ脱出劇に終わっていた表面的な報道を、江夏投手への長時間にわたるインタビューに加え、監督・コーチ陣や味方守備陣、相手打者陣、球場で観戦していた野村克也氏など様々な関係者への取材を重ね、徹底的に掘り下げて一流のスポーツ・ノンフィクションに仕立て上げた山際氏と、当時の「Number」編集者の才能・努力に脱帽。当時江夏投手の存在によって日本でもその存在が知られ始めていたクローザー/守護神というポジションにスポットを当てたい、という思いも関係者の頭の中にはあったろう。ただ、そうした意図を差し引いても、野球というスポーツが持つ普遍的な人間のドラマを描ききった僅か24ページの本稿は、見事なまでに簡潔で美しく、芸術の域にまで達していると言って良い。
 もし山際氏がご存命で、自分がリアルタイムで経験した1990年代から2000年代にかけての野球界を取材してこのようなノンフィクションを世に出しておられたら、と無理な想像をしてやまない。

                                    (角川文庫、1985年)


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