Foomin Paradise (読書ブログ)

経済や歴史、フィクションを中心に読んでいます。500冊までもう少し。

保阪 正康 『陸軍省軍務局と日米開戦』

 戦前・戦中の陸軍省において国防政策立案・議会交渉・国防思想普及を担った同省軍務局幹部を中心に、開戦前2ヶ月の政府・軍中枢の動向を追った、ノンフィクション作家の保阪氏によるドキュメント。

 開戦にあたって、当時の陸海軍が、明確な根拠や冷静な判断よりも、官僚としての既得権益や面子、ときに根拠なき精神論を優先させた様子は、様々な資料によって既に明らかになっているが(http://blogs.yahoo.co.jp/s061139/32782200.html
)、本書はその一端を、陸軍省軍務局の面々を切り口としてより鮮明に浮かび上がらせている。
 1941年1月に成立した東条内閣とその配下の陸軍省が、天皇の命によって開戦の見直しを模索していた事実は、当方も含め多くの方にとって意外に映るのではないか。他にも政府中枢では、日米両国の国力を見定めた上で、開戦しても勝利は困難という見方を、多くの人間が共有していた。しかし、当時の大本営、すなわち参謀本部と軍令部の首脳が開戦を強硬に主張、開戦直前の一連の政府・大本営連絡会議は、戦争準備と日米交渉を両睨みで推し進めるという玉虫色の妥協に終わった。しかしその国策方針は、機密ゆえ他の軍・政府部局やメディアには共有されず、開戦やむなしとする世論が次第に高まってゆく。対米交渉の期限と11月末までと区切られた外務省は焦るが、譲歩する余地のない厳しい交渉条件に加え、外務本省と米国大使館間の公電内容が米国にだだ漏れだったことから、「日本は11月末まで交渉を引き延ばしその間に戦争準備を整える腹だ」という誤ったメッセージを米国に与えることとなり、対米交渉は見事に失敗した。

 無謀な開戦の責は、ひとえに合理的な思考を怠った大本営幹部、そして彼らの強硬論を押し留めることができなかった東条首相の能力不足によるところが大きいと思う。東条内閣組閣時に天皇が示した開戦回避方針を知りながら、天皇の名を借りて戦争に踏み切り、国内だけで軍人・民間人あわせて数百万に上る人々を死に至らしめた大本営の指導者は、まさに国賊である。また東条首相も、2・26事件のような中堅将校の爆発が容易に予見された時勢とはいえ、天皇の錦の御旗を最大限に利用して、文字通り命を賭けて大本営を抑え込むべきであったと思う(本書でもその努力の形跡を確認することが出来るが、全ては結果である)。加えて、当時の制度的な問題でいえば、大本営に内閣の支配すら及ばない絶大な権限を付与した、明治以来の大日本帝国憲法の構造的な欠陥も忘れてはならない。

 しかし一方で、本書を読んで驚いたもう一つの点は、保阪氏が、帝国主義デファクトスタンダードであった当時の国際関係から見れば、いずれにせよ日本にとって開戦は不可避だった、と巻末で明記されていることである。ドイツ・イタリアと組んで先行する「帝国」を追いすがる日本にとって、当時の最強国・米国との太平洋での決戦は避けられず、それを回避するための政策転換、すなわち米国が当時示していた中国からの撤兵、三国同盟からの離脱、蒋介石政府の承認などは、「当時の日本政府にも、そして昭和天皇にもとても採ることのできない政策であった」という。保阪氏は同時に、「歴史的な展望もなく、長期的な政策ビジョンもなく、ひたすらドイツの軍事力に依存し、軍事的決着は、アメリカやイギリス国民の厭戦思想の広がりに待つというだけの軍事行動など、おおいに批判されてしかるべきだ」と付け加えることも忘れない。勿論いたずらに戦線を泥縄化させ国土を焦土とした無能な戦争指導に対してはそれはそれで大いに批判するとして、それ以前の話として、たとえ国民の命の重さに鈍感な無能な指導者が当時の日本を動かしていたという事実を差し引くとしても、「それでも本当に開戦は不可避だったのか」という根本的な疑問は、当方の中でまだ氷解しきれていない。保阪氏が「政策転換は不可能であった」とする、当時の日本と日本を取り巻く国際環境について、引き続きもう少し詳しく調べてみようと思う。

(1989年、中公文庫)


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